日本における近代建築の歴史は、幕末から明治にかけての時代にはじまりました。それまでも建築を担ってきた人々はいましたが、設計監理を専門とする「建築家」という職業が生まれたのは、欧米の技術と文化が導入された明治時代初期のことでした。
第1章では、日本における近代建築の基礎を築いた人々を、彼らが学んだ工部大学校の教育とともに取り上げ、建築設計競技が日本で始まる前までの黎明期の建築界の状況を紹介します。
日本における専門的な建築教育のさきがけとなったのが、工部省におかれた工学寮とその後身である工部大学校でした。工部省は産業の近代化を推進するため設置され、官営事業を統括した中央行政機関であり、工学寮・工部大学校はその下にあって工業分野の人材育成を担いました。
工学寮は明治4(1871)年に工部省の技術官僚養成を目的として設置されました。明治10(1877)年、工部省の組織改編に伴い工部大学校となり、工部省が廃止される明治18(1885)年まで工学分野の教育を担っていました。
1)旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』虎之門会,昭和6【292-88】
本書は、工部大学校出身者からなる虎之門会において編纂されたもので、工学寮設置から明治19(1886)年に帝国大学工科大学となるまでの歴史が史料とともにまとめられています。
工学寮の生徒は官費生と私費生の二種に分けられており、官費生は学費が免除される代わりに卒業後工部省で7年間勤務することが義務付けられていました。開校当初は官費生が原則となっていましたが、明治12(1879)年以降に募集された学生は私費生が原則となり、成績優秀者数名のみが官費生となることができました。
開校当初は教師の大半がお雇い外国人でした。都検(教頭)を務めたダイアーには月給660円が支払われました。この額は当時の政府高官の俸給に匹敵し、教師の待遇の高さと彼らへの期待の大きさが窺えます。
工部大学校における建築教育の中心を担ったのがお雇い外国人のジョサイア・コンドルです。1852年ロンドンに生まれたコンドルは、ロンドン大学で建築を学び、英国王立建築家協会主催のソーン賞建築設計競技で優勝するなど、将来を嘱望された建築家でした。コンドルは明治10(1877)年、明治政府の招聘に応じて来日、25歳にして工部大学校の教師となり、造家学(現在の建築学に相当)を教えます。その傍ら明治17(1884)年まで工部省に属し、営繕局顧問として、帝室美術館(東京国立博物館旧本館)や鹿鳴館、開拓使物産売捌所(日本銀行旧本店)など多くの建築物の設計を手がけています。
2)ジヨサイヤ・コンドル『造家必携』加藤良吉,明治19【34-96】
コンドルの薫陶を受けた工部大学校造家学科の第1回生は、辰野金吾、片山東熊(かたやまとうくま)、曾禰達蔵、佐立七次郎(さたてしちじろう)でした。コンドルが着任するまで、工部省に属していたお雇い外国人のボアンヴィルやダイアックらが工学寮での教育に当たっていましたが、実習が主で、体系的なものではなかったようです。コンドルは工部大学校で体系的な講義をするとともに、自身の担当していた建築にも学生たちを関わらせ、実地で学ばせました。コンドルの教え子たちは工部大学校卒業後、それぞれに活躍していきます。
のちコンドルは教育の一線からは身を退き、岩崎久弥邸(現:旧岩崎邸庭園)をはじめ邸宅やクラブの建築を数多く残しています。
辰野金吾は、明治12(1879)年造家学科を首席で卒業し、翌年から官費留学生としてイギリスに渡り、ロンドン大学や師コンドルも所属したウィリアム・バージェス建築事務所において学びました。明治16(1883)年に帰国後、工部省営繕課に勤務し、翌年にはコンドルに代わり工部大学校の教授を務めます。明治18(1887)年工部省廃止の時期に退官しますが、翌19(1888)年帝国大学の開学に際して教授となります。また、この年は現在の日本建築学会の前身の造家学会が設立された年であり、主要な設立メンバーであった辰野は長らく会長を務めています。辰野は明治35(1902)年に退官し、以降民間で活躍します。
若き日の辰野は、中央銀行、中央停車場、国会議事堂の3つの建物を手掛けたいと語ったと言われます。その後、中央銀行である日本銀行本店、後に東京駅と呼ばれる中央停車場の設計を実際に担当しました。国会議事堂に関しては明治40(1907)年ごろ建設計画が具体化した際、辰野は建築設計競技(コンペ)での設計案募集を強く主張し、工部大学校における後輩でもあり大蔵省で議事堂建築の中心人物となった妻木頼黄(つまきよりなか)と対立することになります。
3)辰野金吾・葛西万司『家屋建築実例.第1巻ノ図』須原屋,明治41【404-54】
片山東熊は工部大学校卒業後、皇居御造営局で明治宮殿の建築に関わり、宮廷建築家としての道を歩みます。帝国京都博物館(現:京都国立博物館)、帝国東京博物館(現:東京国立博物館)表慶館などの建築を手がけた片山は辰野金吾、妻木頼黄と並んで明治における建築家の三大巨頭の一人とされることもあります。片山の集大成ともいえる建築が東宮御所(現:迎賓館赤坂離宮)であり、ネオ・バロック様式の粋を集めた豪華絢爛な作りをしています。建物は西洋建築でありながら屋根には鎧武者の意匠が用いられるなど、日本の伝統を取り入れようとの試みが感じられる作品です。
※ネオ・バロック様式…16世紀にイタリアで始まり、17~18世紀にヨーロッパ全土で広まった複雑で多様な形態の組合せの建築をバロック様式という。ネオ・バロック様式とは、19世紀後半にフランスから始まったバロック建築の復興をいう。
同じく造家学科でコンドルに学んだ中で最年長の曾禰達蔵は、高橋是清が創立した唐津藩の洋学校耐恒寮でも辰野と同窓でした。工部大学校卒業後、工部大学校の助教授を経たのち海軍で関係建造物の建築に当たります。明治23(1890)年三菱社に入社し、コンドルの設計した三菱一号館では監督を務め、それ以降も「一丁倫敦」と呼ばれた丸の内のビジネス街建築に尽力します。明治39(1906)年に三菱を退社後、明治41(1908)年、中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所を設立します。明治45(1912)年に中條とともに設計した慶應義塾大学図書館は、煉瓦と花崗岩からなる優美な姿を今も残しています。
佐立七次郎は、逓信省で各地の郵便局の建設を手掛けたほか、日本における高度測量の基準となる日本水準原点標庫を設計しています。また晩年は日本郵船の顧問となり、日本郵船小樽支店を設計しました。この建物はポーツマス条約締結後の日露国境確定会議の舞台となったことで知られています。
工部大学校造家学科は帝国大学への併合までの間に20名の卒業生を輩出しています。しかし後の議事堂建造問題の中心人物の一人にして、辰野金吾の最大のライバルと評される妻木頼黄は明治11(1878)年に工部大学校に入学しコンドルの教えを受けたものの、明治15(1882)年に中退しています。その後、米コーネル大学に編入、建築学士の学位を取得し明治18(1885)年帰国しました。
帰国後、東京府でその職歴を始めた妻木は、翌年から官庁集中計画のため井上馨により設置された臨時建築局に移り、明治22(1889)年までドイツに派遣され、中央官庁街の設計を手掛けたエンデ・ベックマン事務所で設計を学びました。政治的な事情から官庁集中計画が大幅に縮小された後、臨時建築局は廃止され、妻木は事業を引き継いだ内務省を経て大蔵省に移ります。営繕課長となった明治34(1901)年以降、妻木は官庁営繕に対して絶大な影響力を持つことになります。
明治37(1904)年に完成した横浜正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館)は妻木の代表的な作品と言われています。また、横浜赤レンガ倉庫として知られる新港埠頭保税倉庫も手がけました。
東京復活大聖堂(ニコライ堂)は駿河台の高台に建つ、日本で最大の正教会の聖堂です。ロシア人建築家のシチュールポフが原設計を行い、コンドルが実施設計を担当したビザンティン・リバイバル様式の聖堂は、明治17(1884)年から建設が始まりました。
明治24(1891)年、起工から7年の月日を経て大聖堂は完成し、建築に尽力した大主教ニコライ・カサートキンの名からニコライ堂と呼ばれ親しまれてきました。
ニコライ堂は大正12(1923)年の関東大震災により高さ40メートルの鐘塔が倒壊し、またその後の火災によってドームも崩落し、木造部分が焼失するなど大きな被害を受けました。
昭和2(1927)年から、のちに明治生命館などを手掛ける岡田信一郎により再建設計が行われ、昭和4(1929)年に再建が終わりました。このとき鉄筋コンクリートにより構造を補強するとともに、ドームや鐘塔の形状が変更されていますが、煉瓦造りの壁体はほとんどが建築当時のまま残されています。
国立国会図書館では、岡田信一郎・捷五郎兄弟の設計原図集成を所蔵しています。その中には、ニコライ堂復元図(下図)をはじめ、歌舞伎座や明治生命館など著名な建築の設計原図も含まれます。
※ビザンティン・リバイバル様式(ネオ・ビザンティン様式)…19世紀後半に、ドームやアーチといった特徴を活かしつつ、ビザンティン建築を復興した様式。(ビザンティン建築とは東ローマ帝国で発展した建築様式。ドームとアーチが特徴。外観は簡素だが、内部はモザイクやフレスコなどによるイコンで装飾される。)
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第2章 建築家たちの競演