史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

[日誌 高木惣吉]

[日誌 高木惣吉]

※ 昭和20年5月5日~8月17日の部分のみテキスト化しました。
※ 日記帳上部「特別記事」欄への記載事項は< >内に記しました。



昭和二十年五月
五月五日(土、晴)
陸海軍集会所にて松谷陸軍大佐、庵原海軍大佐、遠藤主計大尉、竹村主計中尉と会食。食後、陸相秘書官舎に行き紅茶を呑み乍ら懇談。一五三〇、三戸人事局長より若し軍務局長に就任するとせば健康上自信ありやと質問さる。
○軍務局長の人事は、前線の印象を重視すべきこと其他の理由を以て、明瞭に其の任に非るを以て辞退す。三戸局長は、健康以外の理由は我に一任され度、唯健康の点のみを問題にせんと云ふ。然らば問題は一層明確にして、否定的なりと答へたり。
○但し真実の理由は、大臣の希望は保科、三戸案は矢野、之等が不評判なりしと聯合艦隊長官豊田大将等の慫慂により、我輩を候補者にしたる迄にして、大臣の熱望とも覚へず。従来海軍の為に種々劃策し運動するところありしは、全く自ら乗出さん野心に基くに非ずして、専ら適材を適所に引出さんが為なり。仮令誤りでも自ら注目の地位に就くは我が志に非ず。新次官、新次長との組合せにては仕事のやれる自信も無し。最も緊密なる関係を有すべき書記官長迫水は、組閣の際余の強く反対排斥したるところにして、調和円満を欠ぐ惧大なり。健康恢復しあるも素より充分ならず。家庭の事情も激職に不適。尚此の救国の一大危局に莅んで仕事を為すには、是非とも人と金とを使はざるべからず。然るに海軍の旧き観念は、人の使ひ方と金の使ひ方(使はせ方)を知らず。到柢仕事の出来る見込なし。以上が軍務局長を辞退せし真の理由なり。
<終戦のため奔走最中、而もピンチにある現状で軍務局長どころの騒ぎではない。
吾は既に終戦工作の内命を受けてこれに没頭しあり。他の配置につく心、毛頭浮ばず。三戸これを知らず。
局次長高田利種を予定し置きて、之との組合せにて局長を探しつつあるは詮衡順の逆顛なり。高木局長案も多分に高田の策動によるものにして、彼は先般総長官邸にて一時間に亘り余の出馬を勧説したり。>

五月六日(日、晴)
亡母さよの一周忌なり。真福寺奏師を招じ供養。

 五月七日(月、晴)
去る四月廿四日独ヒムラー、瑞典外務省を通じ対英米無条件降伏申出。同廿六日蘇を含めざれば受諾し難しとして拒絶(英チャーチル)。
本五月七日デーニッツ提督、全面無条件降伏。

 五月八日(火)
一二〇〇赤坂三河屋にて山崎、坂、古井三氏と会食。

 五月十日(木、晴)
一二〇〇銀座鶴の家にて、町村警視総監と会食(B29一来襲)。

 五月十一日(金、晴)
一二〇〇林秘書官々舎にて、松平秘書官長、松谷大佐、庵原大佐と会食。

 五月十六日(水、晴)
一一〇〇外相官邸にて、東郷外相と会談。
一三〇〇同盟にて、佐藤陸軍大佐と会見。

  五月十七日(木、晴)
一三三〇富田健治氏、連絡の為来訪(一三〇〇頃空襲にて、暫らく待避。一三三〇頃面会)。

 五月十九日(土)
B29二五〇来襲。
一五一五、東郷外相往訪。

 五月廿一日(月、晴)
〇九三〇、下村正助中将来訪。

 五月二十二日(火)
松谷大佐来訪。阿南陸相に進言の状況報告。海軍大臣、軍令部総長に面談。

 五月二十三日(水、晴)
及川総長に面談。松平侯に面談。
一二〇〇、松前重義と会食。

 五月二十四日(木、晴)
〇一三〇より未明迄、B29二一〇機京浜に来襲。交通線大混乱。一二〇〇町村、水池招待の約束あり。小田急にて出勤しやうと厚木迄行きて立往生し、遂に引返す。

 五月二十五日(金、晴)
夜半よりB29二〇〇余機来襲。海軍、外務、大東亜各省、戦火に罹る。
<宮城、大宮御所其の他、戦災甚大。>
五月二十九日(火、曇)
〇六三八平塚発の汽車に乗るつもりで出掛けたが運転休止らしく、〇七一四頃来着の汽車にて品川駅着の頃、空襲警報。定期券も買へず、其の儘第一分室に行く。空襲待避、(〇九三〇)横浜、神奈川、川崎、鶴見猛爆を受け、被害死傷甚大。黒煙天に冲す。
中食後、本省訪問。一三四〇帰室。品川、新宿を経て経堂迄自動車にて廻り、小田急、相模線にて一七〇〇過、無事帰宅す。

 五月三十日(水、晴)
〇九〇〇頃富田健治氏、近衛公の連絡要事にて来訪。内容、芦田均に面接せしことなり。従て、米内大将とは面談の内容を洩せる事実なき旨の釈明。
一一三〇藤井茂大佐来訪、中食を共にし乍ら懇雑談。
<対蘇工作の方針要領等。>

 五月三十一日(木、晴)
〇七五九の汽車が途中(程ヶ谷附近)停車、遅々として進まず、一一〇〇漸く目黒に着く。中食後、新長官小沢中将と暫らく面談。戦争指導会議の其後のことを談合。一三三〇、渋谷富ヶ谷の橋本を見舞ひ、海軍省に行く。山梨学習院長に邂逅。
米内大臣と三十分許り面談。鈴木、阿南と懇談の状況を聞く。
<白楽天の詩「野火焼いても尽きず、春風吹いてもまた生ず」の一句を引用して、息を長くし、将来への希望をつなぐことを暗示された。>

 六月一日(金、曇)
定例会報に出席せず。総長とも面談せず(昨日伝言ありたり)。東京丸ビル東亜交通公社にて定期を求め、帰茅。

 六月二日(土、雨)
本省に出勤。正午、豊田新軍令部総長と食事を共にし乍ら懇談。戦争指導の問題、宮中側近の状況、陸軍上下の空気、政府の状勢、国内一般の形勢等。
尚、高松宮殿下の東京御転任のことも、総長より依頼あり。
一〇三〇より一一三〇迄、大臣室にて松谷大佐と懇談。
午後海軍大学に立寄り、研究対策を持つて帰茅。(松本正夫教授来校中)

 六月三日(日、晴)
〇八〇〇、渡邉氏来訪。午後、富田健治氏来訪、近衛公の伝言連絡。夜山口氏夫人来訪、見習尉官(主計)志願資格のことに付質問。

 六月四日(月、晴)
朝先づ本省に出勤。人事局長に面談。
高松宮殿下の御内意は、大野人事局長横須賀に出向きて御伺ひすることに相談。尚伏下主計大佐、当分其の儘にして貰ふことに諒解を取付け、一二〇〇の定期にて大学校に行く。
午後、横山少将、藤井大佐、一分室に来会。
一五〇〇宮内省に、松平秘書官長往訪せしも不在。一五五五東京発、山北行にて帰茅。

 六月五日(火、曇)
B29三〇〇機、阪神来襲。
最高戦争指導会議及御前会議開催の内議、表面化す。
国力の真相も解らず、陛下の御思召も拝察する能力のない連中が、国政と軍務を動かしては、邦家の運命も知るべきのみ。三嘆の極み。下打合会には、東郷外相と会見の為出掛けたる為、欠席。
<最高戦争指導会議下打合会、大西次長の主催。>

六月六日(水、曇)

〇九〇〇より終日、最高戦争指導会議。

 六月七日(木、雨)
一〇〇〇東郷外相と会見。
最高戦争指導会議の決定に対し、外相は満腔の不満あり。Aは無論のことなるが、Bの軍令関係にも深刻なる批判あり。
<六月七日、西田幾多郎先生永眠。>

 六月八日(金、晴)
〇七二九の汽車にて富田氏と同行。
〇九〇〇、松平秘書官長と研究部にて会見。
一〇〇〇南原東大法学部長、来訪。
深刻なる意見の開陳あり。
〇九〇〇より御前会議。
臨時議会召集(第八十一)。

 六月九日(土、晴)
開院式。
怏々として楽しまず、勇気五体より逸散する心地す。
小沢長官を訪ね経過を語らんと日吉部隊を訪問せしも、不在出張中。

 六月十日(日、晴)
〇七〇〇、富田健治氏来訪。
B29 京浜地区来襲。

 六月十一日(月、曇)
P51約六十機、京浜地区来襲。

 六月十二日(火、曇)
戦況、戦果等を、宮崎中佐に聞く。

 六月十三日(水、晴後雨)
四時起床、〇六一六茅ヶ崎発相模線にて橋本乗換、八王子に出て同地発〇九〇七の甲府行の汽車にて、橘事務官と甲府に行く。
一一五〇、甲府中学に疎開の陸大往訪。一二三五頃より一三四〇迄、賀陽宮殿下に最近の戦況等を説明。
一四〇五の上り(遅れて一四三〇頃発)満員の汽車にて帰途に就き、逆コースにて、二〇〇〇雨降る中を自宅に帰着す。
<岡田大将に宮様より要請ありしも、大将は老身のため高木に代理を懇請され、出かけることになれり。>

 六月十四日(木、晴)
一一〇〇、賀陽宮より依頼の「ウィスキー」一瓶を岡田大将邸に届け、海軍省に寄り大臣に面談。(大臣木戸内府に面晤の件、緊急措置法修正に大臣反対の強硬意見なりし件等)
一二〇〇栄屋に行き、山崎厳、古井新愛知県知事、矢部貞治三氏と会食。
一四〇〇宮内省にて、松平秘書官長と会見。

 六月十五日(金、曇)(小雨あり)
朝、次官と行違ひ面談出来ず。
〇九二〇学校に「トラック」にて駆付け、南原、高木両教授と会見。
B29三〇〇機、阪神地区に来襲。
午後、次官、次長と話して早目に帰る(咽喉を痛め、気分思はしからず)。

 六月十六日(土、晴)
〇九〇〇頃、富田氏連絡の為来訪。
咽喉を痛め休養。
午後は松平侯(東京)、原田男(大磯)を招待ありしも不参。大磯には近衛公も来会したる筈なり。

 六月十七日(日、曇後晴)
午前中臥床、静養。午後、少し薪作り等、躯を動かす。
此の日より十八、十九、二十、二十一、二十二日迄、風邪の為引籠る。

 六月二十三日(土)(曇)
出勤。大学校にて矢部教授、西郷隆秀両氏に逢ふ。矢部教授との打合せは、
矢部、杉原、高木、庵原、伏下、天川にて外交研究会を開くことに内定。第一回を来る三十日栄家に予定。
西郷はA方面の情勢を齎らす。

 六月二十五日(月、晴)
一〇〇〇、京大高山教授来訪、意見具陳。
一三三〇陸相秘書官々舎に、松谷大佐往訪。
暫らく話して一所に貴族院に行き、四人にて打合せ、一六〇〇海軍省に帰る。
熊崎、武村来訪中。

 六月二十六日(火、晴)
高松宮殿下御着任。

 六月二十七日(水、晴)
〇九〇七茅ヶ崎発にて、小田原入生田の岳南荘に、近衛公、原田男往訪。
午餐を共にし一四〇〇辞去。

 六月二十八日(木、晴)
〇八五〇豊田総長に面接。三田村一味に動かされて、近衛公と会見(本朝一〇〇〇の約束)の不可なる所以を説き、総長納得。代理として霞山会館に出向き、事情を述べ公の諒解を求む。
一一三〇大学校に帰り、山崎巌氏に会ひ、山崎、坂両氏に海軍の最高施策を委嘱。快諾を取付く。
一三三〇、警視総監町村氏を往訪。
右同様の趣旨にて、連絡と警戒依嘱。同様快諾を得。

 七月二日(月、雨)
〇八〇〇富田氏、連絡に来訪。

 七月三日(火、曇後雨)
一四〇〇貴族院に、松平侯、松谷大佐、加瀬書記官と会合。

 七月五日(木)
一二〇〇、町村警視総監と会食(梶田屋)。

 七月七日(土)
一二〇〇栄家にて研究会。矢部、杉原、伏下、天川。

 七月九日(月)
〇九〇〇大臣に面接。一〇〇〇の定期にて大学校に帰る。
一〇三〇、坂信弥氏来訪。

 七月十日(火)
一〇〇〇顧問室。
一三〇〇同盟にて、陸軍の佐藤大佐、荒尾大佐と面談。

 七月十一日(水、雨曇)
藤井大佐を伴ひ、日吉部隊訪問。
小沢長官に、六月八日御前会議、二十二日の御前懇談会等の経緯、其の他情勢を説明。
ウィスキー、菓子等の土産を貰つて帰る。

 七月十三日(金、雨)
〇七〇〇富田氏連絡に来訪。
一八三〇富田氏、更に小田原(入生田)に近衛公を訪問された結果、更に来訪。

 七月十四日(土)
一二〇〇、栄家研究会(杉原、矢部、伏古、天川)。

 七月十五日(日)
〇七三〇、富田氏来訪。
〇九〇〇、藤井大佐来訪。
一四〇〇、中村実、村島寛両氏来訪。

 七月十六日(月)(曇)
一四三〇華族会館にて、松平侯と会見。
平塚空襲され、終夜防空壕に出たり入たり。東海岸、空襲の側杖を食ふ。
長嶺家直撃され全焼、側の細井家も類焼の危険大、軍服にて見舞ひに行く。なお手押しポンプにて屋根に散水していた。
帰路、青木耕太郎の家も直撃されたので見舞つてくる。
防空壕内に水が溜つていて、静江と成共に相当冷えこんだ形跡あり。

 七月二十三日(月)
貴族院三階の外務省別室に、松平侯、外務加瀬、陸軍松谷と会合。
終戦、特に対蘇交渉に付協議。

 七月二十四日(火)
松谷大佐と会見。
町村警視総監と会見。

 七月二十五日(水、晴)
一二〇〇高瀬、青山大学校に来訪。住友電機に同行、中食を共にし乍ら政局を論ず。矢牧の口添へありし男なるも、大分に田舎臭き政見なり。
今日佐藤尚武大使、ロゾフスキー次官に会ひて、終戦斡旋依頼。特使派遣のことを申入れしに、書きものにして呉れとの注文ありし旨、後にて電報にて判る。

 七月二十六日(木)
一四〇〇の予定なりしを一五〇〇に延期、貴族院にて松平侯等三人と会合。
蘇京モスコウ何等の電報なし。

 七月二十七日(金)
〇七〇〇、富田氏来訪。
一〇〇〇、西郷隆秀、後藤隆之助両氏来訪。
<二十六日「ポツダム」にて、米英支三国の対日共同宣言発表。十三ヶ条よりなり、陸海空軍の無条件降伏を求む。>

 七月二十八日(土)
一二〇〇、坂信弥氏来訪。
一四〇〇陸軍大臣副官々舎にて、松谷大佐、松平秘書官長(侯)と会見。
一五〇〇外務省(文部の四階)にて、東郷外相と会見。

 七月三十一日(火)
一〇〇〇顧問室にて、岡田、松江、顧問等と談合。
一四〇〇貴族院にて、例の「メムバー」会合。
佐藤大使より、何等情況報告来らず。五里霧中の現情なり。

 八月一日(水)
午前九時過、町村警視総監、次で山崎巌氏、後藤隆之助氏来訪。
午後森、一原と海軍省にて会見。
戦局転換の必要性、切迫し来れるも、蘇の情勢も判らず、米英支の真意も読めず、全く進退両難の形なり。
内閣諸公、殊に戦争指導責任者の歩調揃はず、局面打開の政治的努力も足らず、歯痒きことのみ多し。
今日米内海相、阿南陸相懇談の予定。

 八月二日(木)

 八月三日(金)
一三〇〇、一原、左近司国務大臣秘書官と会見。
一七〇〇、栄家(矢部、伏下、天川)

 八月四日(土)
一四〇〇、華族会館にて、松平秘書官長と会見。時局収拾に付懇談。

 八月六日(月)
敵三機にて広島に対し、原子爆弾攻撃を行ふ。
被害莫大、死傷計測を許さざる様子なり。

 八月八日(水)
山崎巌、坂信弥、後藤隆之助氏来訪。
政局愈急迫す。
蘇聯の返事来らざる為、悲願的雰囲気兆す。
<八日、最高指導会議。三国ポツダム宣言を基礎とする我方態度につき討議。陸軍及軍令部強硬論。>

 八月九日(木)
九時過出勤すれば同盟の森より、蘇聯より対日戦争状態の通告をなし、蘇満国境にて続々越境しつつある旨の電報を、通報し来りあり。
原子爆弾現はれ、蘇の参戦あり。
遺憾乍ら大勢已に決せり。
国内の情勢は一刻の猶予を許さず。勇断一決、戦局を最後の寸前に収拾する外途なし。
一四五〇、松平秘書官長と会見。時局収拾につき懇談す。
<九日ソ聯宣戦。緊急閣議。最高戦争指導会議。梅津、阿南、豊田強硬論。外相、受諾主張。条件付受諾のことに決定。閣議も意見対立、深刻に及び決せず。強硬論、阿南、松阪>

 八月十日(金)
長崎及大村に対し、原子爆弾攻撃を再行す(九日)。
被害、酸鼻を極むる様子に聞ゆ。
〇三〇〇閣議、〇四一〇終了。
〇七〇〇瑞西経由、我方受諾電発送。
<十日二三四〇(九日)頃より御前会議、〇二四〇終了。意見対立の儘、御裁断のこととなる。聖上、外相案を採らる。一一〇〇より、海相より元帥、軍参に説明。一四〇〇閣議、新聞発表。
十一日一二〇〇、海相訓示発電。一六〇〇部局長に対し、大臣説明。二〇〇〇、大臣、総長より各軍に対し、部下統制に関する親展電発送。
十二日〇七三〇、日本の申出に対する三国の回答放送。閣僚懇談会、陸相反対。両総長、帷幄上奏をなす。海相、豊田、大西を召致、詰責す。
十二日、皇族会議。
十三日正午頃、正式返電来着。〇九〇〇頃より、最高戦争指導会議、「フリートーキング」。>

 八月十四日(火)
国内の情勢、逼迫す。
陸軍は飽く迄、本土決戦に未練(?)あり。最高の決定に対して、中以下のところの一部に相当強烈なる反撥あり。
一〇〇〇、元帥会議。
<十四日一〇三〇、御前会議。閣僚、最高戦争指導会議構成員、枢相、内閣四長官、両軍務局長。終戦大詔渙発。>

 八月十五日(水)
昨深更より、陸軍に不穏の兆あり。今朝夜半頃より、近衛師団の禁衛増強の意味にて宮城に入りし某聯隊に叛意あり。宮城出入の城門を扼し、陛下御放送の録音を奪取せんと、下村(宏)情報局総裁を坂下門に捕へて拘禁せしも、幸に録音を所持せず。
一方叛軍は、石渡宮内大臣、木戸内大臣を襲撃せしも、共に内報ありて避難せし後にて、無事なるを得たり。
一方、軍務局の少壮躍起組、畑中、椎埼、石原、古賀(東条の女婿)外三名は、近衛師団長のもとに押かけ彼等に加担せんことを迫りしも、師団長之を断乎として拒絶し、遂に兇弾に斃る。居合せし第二総軍某参謀、亦厄に殉ぜり。叛軍夜半より約六時間、宮城を閉塞す。
外部との連絡杜絶せしも、幸にして侍従武官府より海軍省への直通電話一本切断せられざりしを以て、急は海軍省に伝はり、海軍省より東部軍に伝達。軍司令官田中静壱大将自ら奔馳して宮城に至り、判軍将校を説服拉致し、大事に立至らずして終息す。
阿南陸相は、和平救国の大勢と、陸軍部内玉砕強硬論との問に介在して、之を調克するの勇猛心を欠き、今朝五時頃自決、七時頃絶命せり。
在横浜岡田部隊の応召佐々木武夫中尉の率ゐる兵四十名、横浜高工生二十名、「トラック」にて東都に乱入。首相官邸を襲撃発砲、放火せしも成功せず。鈴木総理、平沼枢相の自邸を夫々襲撃して、放火全焼に至らしめしも、人員には別に被害なし。
海軍十三航戦三〇二空(司令小園安名大佐)は強硬論にして、飛行機より「ビラ」撒布を為す。
十五日正午、「ポツダム」宣言受諾の詔勅、聖上自らの御放送録音にて全国に伝へらる。
鈴木内閣総辞職。
木戸内府は単に、平沼枢府議長と会見せるのみにて奏薦。大命は東久邇宮稔彦王殿下に降下す。
副総理として近衛公に内交渉、公受諾。
陸軍大臣は教育総監、参謀総長より推薦出来兼る旨の回答につき、或は情況により、陛下の御勅命を仰ぐこととなるやも図られず。
<十五日、蘇、支友好条約締結。>

 八月十六日(木、晴、暑)
米内海相留任のことに関聯し、井上大将及多田次官と連絡。宮内省の組閣本部に往復す。
一五三〇宮内省にて、松平秘書官長と会見。米内海相、東郷外相に留任要望(十六日一五三〇頃)。書記官長緒方竹虎氏、陸相候補下村定大将(当分、東久邇宮殿下兼摂)。
<十六日、南京国民政府解消。>

 八月十七日(金)
東九邇宮内閣成立、一四〇〇親任式
海軍 米内留任 陸軍 総理兼摂
外務 重光 内務 山崎
大蔵 津島 司法 岩田
文部、厚生 松村(謙) 軍需 中島(知)
運輸 小日山留任 農商 千石
無任相 近衛 無任相 緒方

法制局長官村瀬、書記官長緒方兼任。

Copyright © 2006-2010 National Diet Library. All Rights Reserved.