飛行家。渡米し、ユタ州立大学予科に学んでいたが、飛行機に関心を持ち飛行機学校に入学、操縦技術を学んだ。同地では『ロッキー時報』という邦字新聞も発行している。大正2(1913)年5月4日、大阪・京都間を飛行したが、京都深草練兵場への着陸に失敗、死亡した。日本の民間飛行家最初の犠牲者である。帰国して1ヶ月ほど後に起きた事故であった。