文学者。二本松藩儒官の長男。藩校敬学館に学び、のち江戸の聖堂に入る。その後故郷に戻り藩校教授となる。維新後、藩の公用人として再び東京に出るが、廃藩により失職。以後、著述を業とした。漢文に長じ、明治初年以来、『東京新誌』(1876)、『吾妻新誌』(1883)などを発行した。特に、7年に発表した『東京新繁昌記』は大いに売れ、名声があがった。29年宮城県の中学校の漢文教師に招かれ、12年間在職した。
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