父は佐賀藩士。藩校弘道館に学ぶ。尊王攘夷運動に加わり、その後開国論を唱える。藩吏となるが文久2(1862)年脱藩し皇権回復の密奏を図り失敗、藩から永蟄居を命ぜられる。明治元(1868)年新政府成立後、徴士として出仕、江戸遷都を提唱。文部大輔、左院副議長などを経て5年司法卿となり、司法制度整備や民法制定などに尽力した。6年参議となるが征韓論争に敗れて下野。7年民撰議院設立建白書に署名。同年帰郷後、征韓党の首領となり、佐賀の乱を起こすが敗北し、処刑された。