長崎で蘭学、化学を学んだ後、箕作麟祥に師事、大学南校でフランス学を学ぶ。フランスの法律書を数多く翻訳。明治7(1874)年の民撰議院論争で、最も急進的な即時開設論を主張し注目される。8年元老院少書記官となるが翌年免官。15年自由党常議員となり、自由民権運動の理論家として急進派を指導した。18年大阪事件を起こし投獄されたが、22年大赦により出獄。25年東洋自由党を結成、対外強硬論を主張する一方、労働問題・小作問題等にも尽力した。