近代日本人の肖像

明治初期に創刊された新聞に関わった人々

新聞は、多様な情報通信手段が発達した現代社会においてもなお、主要なメディアの一つです。江戸時代には、「かわら版」と呼ばれる印刷物が存在しましたが、現在に続く新聞の歴史は、幕末に始まります。文久2(1862)年、日本語新聞の嚆矢である『官板バタヒヤ新聞』が幕府の蕃書調所によって刊行されました。その後、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)による初の民間新聞『海外新聞』(当初の題名は『新聞誌』)が、また慶応4(1868)年には、柳川春三の『中外新聞』等が刊行されました。

新聞の歩みは、幕末の揺籃期を経て、明治時代を迎えました。ここでは、明治10(1877)年以前に東京と横浜で創刊された主な新聞に関わった人々を、紙名と創刊年月日の順にご紹介します。



横浜毎日新聞  明治3年12月8日(1871年1月28日)

『横浜毎日新聞』は、神奈川県知事であった井関盛艮(もりとめ)の主唱で、我が国最初の日刊日本語新聞として刊行されました。新聞を毎日速く印刷するため、井関は長崎在住の活版印刷技術者、本木昌造に協力を求めました。本木は弟子の陽其二と上原大市を横浜に送り、2人が新聞刊行に取り組みました。編集は子安峻らが行い、地元の商人である原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛などが資金協力をしています。明治12(1879)年、『横浜毎日新聞』は沼間(ぬま)守一に買収され、本社を東京に移し、『東京横浜毎日新聞』となります。



東京日日新聞  明治5年2月21日(1872年3月29日)

『東京日日新聞』は、戯作者の条野採菊(伝平)、貸本屋番頭の西田伝助、浮世絵師の落合芳幾によって、東京最初の日刊紙として創刊されました。現在の『毎日新聞』の前身の一つです。本紙は総合新聞を志向し、政府の布告等を掲載する欄と一般ニュースを掲載する欄がありました。明治6(1873)年には岸田吟香、明治7(1874)年には福地源一郎が主筆として加わり、政論新聞(「大新聞」(おおしんぶん))の中でも代表的な官権派新聞となりました。しかし、明治15(1882)年に立憲帝政党を支持し、一時その機関紙となったことなどから勢いがなくなり、福地は退社。その後、次々に社長が交代し、明治44(1911)年に『東京日日新聞』の題号を存続した上で、『大阪毎日新聞』に買収されました。



錦絵版『東京日々新聞』

明治7(1874)年に錦絵の版元から出版された錦絵版『東京日々新聞』が、錦絵新聞の始まりとされています。『東京日日新聞』に掲載された過去の記事の中から、庶民の関心をひきそうな記事を一つ取り上げ、その場面を多色刷り浮世絵版画に描き、元の記事を分かりやすく面白い文章に仕立て直したものです。これが好評を博し、続々と錦絵新聞が発行されるようになりました。



両号とも『東京日日新聞』創刊に関わった浮世絵師・落合芳幾の挿絵

郵便報知新聞  明治5年6月10日(1872年7月15日)

『郵便報知新聞』は、前島密の発案により創刊されました。当初は月5回刊行でしたが、明治6(1873)年に日刊紙に移行しました。栗本鋤雲が編集を務めたほか、古沢滋、矢野竜渓(文雄)、藤田茂吉、犬養毅、尾崎行雄、原敬等を執筆陣として自由民権派の政論新聞(大新聞)として発展しました。明治27(1894)年に『報知新聞』と改題、『読売新聞』の前身の一つです。



錦絵版『郵便報知新聞』

人気浮世絵師の月岡芳年は、新聞挿絵を多く手掛け、錦絵新聞も描いています。下の画は、「天狗の使い」と称する曲者を商人が追い返し、迷信に惑わされない商人の膝の上に『郵便報知新聞』が広げられています。図の左下に月岡芳年の別号「大蘇 (たいそ)芳年 」の署名が見られます。

朝野新聞  明治7(1874)年9月24日

『朝野新聞』は明治5(1872)年に創刊された『公文通誌』を改題して誕生しました。本紙は、改題と同時に社長兼主筆として招かれた成島柳北と明治8(1875)年に『東京曙新聞』から編集長として転じた末広鉄腸を中心に、民権派の立場から論陣を展開した政論新聞(大新聞)です。論説欄を設け、政界や社会の時事批判をした洒脱な文とあわせて人気を博しました。しかし、明治8(1875)年の讒謗律及び新聞紙条例による言論統制強化の中で成島や末広は処罰され、明治11(1878)年には発行停止処分を受けました。その後、成島の死や末広の退社により次第に勢いを失い、明治26(1893)年に廃刊となりました。



読売新聞  明治7(1874)年11月2日

創刊当初の『読売新聞』は、庶民を対象に、世間のできごとをルビ付きの平易な文章で報じた「小新聞(こしんぶん)」の代表的なものの一つです。子安峻、本野盛亨及び柴田昌吉によって創刊され、子安が初代社長となりました。当初は隔日刊紙でしたが、明治8(1875)年に日刊紙に移行しました。明治17(1884)年には小野梓が論説欄執筆者として招聘され、明治20(1887)年には高田早苗が主筆に就任しています。高田は、政治と文学の両分野を強化する方針を示し、政治問題を積極的に論説に取り上げるなど紙面の改革に取り組みました。明治22(1889)年には坪内逍遥が文学主筆となったほか、尾崎紅葉、幸田露伴が入社して、文学新聞としても名を馳せました。昭和17(1942)年に『報知新聞』と合併して『読売報知』となり、昭和21(1946)年からは『読売新聞』となっています。



東京曙新聞  明治8(1875)年6月2日

『東京曙新聞』は、明治4(1871)年創刊の『新聞雑誌』を前身とする政論新聞で、明治8(1875)年1月に改題していた『あけぼの』から、さらに同年6月に改題したものです。末広鉄腸、大井憲太郎等が民権論を展開して活躍しました。新聞紙条例発布後、編集長であった末広が処分を受けて退社、その後、岡本武雄が編集長(明治12(1879)年10月から社長)となりましたが振るわず、明治15(1882)年2月末限りで題号は消えました。3月から『東洋新報』(立憲帝政党の機関紙の一つ)となりましたが、同年12月に廃刊されました。



仮名読新聞  明治8(1875)年11月1日

『仮名読新聞』は、横浜で仮名垣魯文によって創刊された小新聞です。初めは隔日刊でしたが、明治9(1876)年から日刊紙となりました。明治10(1877)年に東京に移り、『かなよみ』と改題、明治13(1880)年に廃刊となりました。明治10年(1877)年12月から連載された久保田彦作「鳥追お松の伝」(後に『鳥追阿松海上新話』の題で刊行)は新聞小説史上有名です。



中外物価新報  明治9(1876)年12月2日

『中外物価新報』は、三井物産の初代社長である益田孝が、内外経済の情勢を報じることを目的として、渋沢栄一、福地源一郎などの支援を得て週刊で創刊しました。内外産物の取引や値動き等の商取引に欠かせない商況を掲載したほか、次第に益田孝自身の筆による論説なども掲載するようになりました。『中外物価新報』は、当初は三井物産が新聞刊行の主体となっていましたが、明治15(1882)年に三井物産を離れ、設立された商況社からの刊行となりました。明治18(1885)年には日刊紙となり、22年には『中外商業新報』と改題します。『日本経済新聞』の前身です。

参考文献

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