父は小浜藩士。藩校の順造館に入り崎門学(きもんがく)を学び、京都や江戸に遊学。26、7歳の頃、祖父の本姓の梅田を名乗る。以後、大津で湖南塾を開き、京都の望楠軒講主となる。海防に関する建書を藩に送ったが、これが藩主酒井忠義の忌諱にふれ、嘉永5(1852)年に士籍を削られた。ペリー来航後、尊王攘夷派の中心となり、日米通商条約調印反対や、一橋慶喜擁立、大老井伊直弼の排斥などを図った。安政の大獄が始まると捕らえられ、江戸で取り調べ中に病死した。