侠客。伯父の米問屋山本次郎八の養子。本名は山本長五郎。「次郎八の長五郎」から通称次郎長となる。養父の死後米問屋を継いだが、のち博徒となり多数の子分を従え、富士川や海上交通の縄張りを争い、勢力を張る。明治元(1868)年には東征総督府より道中探索方を命じられた。同年旧幕府方の咸臨丸が清水湊に停泊中新政府軍の攻撃を受けた際、死者を手厚く葬り、これを機に山岡鉄太郎や榎本武揚らと知己となる。維新後は富士山麓の開墾や海運業などに従事した。