父は宇和島藩士。藩校に学び藩校教授となる。明治7(1874)年大蔵省に出仕。翌8年曙新聞社に入社、新聞紙条例を批判し投獄される。のち朝野新聞に転じ、再び筆禍により投獄。自由党結成に尽力したが板垣退助の外遊を批判して脱党。『雪中梅』(1886)、『花間鶯』(1887)等の政治小説を刊行。23年第1回総選挙に当選、自由党に属するが脱党、第2回総選挙には落選した。のち再度当選を果すが29年病没。
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