第一高等中学校から帝国大学法科大学を経て司法省に入る。東京控訴院判事、司法省刑事局長、司法次官、検事総長などを歴任。大正9(1920)年貴族院議員。清浦内閣の司法相。立憲政友会に入り田中内閣で内相となったが、昭和3(1928)年の第1回普通選挙で選挙干渉を批判され辞任した。7年衆議院議員。犬養内閣では司法相から内相に転じ、5.15事件後に立憲政友会総裁となるが、衆議院で絶対多数を占めていたにもかかわらず後継首相に指名されなかった。