陸軍大学校卒業後、ドイツ、デンマーク、スウェーデンに駐在。国家総動員を研究。大正10(1921)年スイス公使館付武官となり、バーデンバーデンで岡村寧次、小畑敏四郎と将来の陸軍改革を誓う。昭和元(1926)年陸軍省整備局初代動員課長。以後、軍務局軍事課長、参謀本部第二部長などをへて、9年軍務局長となる。統制派の中心人物として手腕を振るったが、翌年8月執務中に皇道派の相沢三郎中佐に殺害された。