自由民権家。父は高知藩士。藩校文武館、慶応義塾で学ぶ。明治3(1870)年から11年まで一時帰国を挟みイギリス留学。法学を学ぶかたわら英文で著述を行う。帰国後、共存同衆会員。14年国友会結成、自由党常議員となる。15年党機関紙『自由新聞』の主筆となるが、板垣退助の外遊に反対して免職となり、16年脱党。18年爆発物取締規則違反容疑で拘留、19年無罪釈放後渡米。日本紹介活動を行ったが、フィラデルフィアで客死した。