長崎、江戸で蘭学、英学を学ぶ。安政6(1859)年幕府に出仕。幕府使節の一員として2回渡欧。明治元(1868)年新政府を批判する江湖新聞を発行、逮捕される。3年大蔵省に出仕し、伊藤博文渡米と岩倉遣外使節にそれぞれ随行。7年から21年まで『東京日日新聞』を主宰、政府系新聞記者として言論界で大きな影響力を持った。それ以後は政治小説や歌舞伎台本の執筆、演劇改良運動など多方面で活躍した。37年衆議院議員。
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