昭和3(1928)年日本大学専門部政治学科卒。学生時代から労働運動に加わる。5年に宮城県に帰り、小作争議を指導。首謀者として逮捕される。全農宮城県連書記長を経て、12年仙台市議会議員に当選するも、翌年、人民戦線事件に連座し逮捕。戦後、日本社会党結成に参加。22年の総選挙で衆議院議員に当選。26年の党分裂では社会党左派に属す。30年の党統一後は党内左派のリーダーとして江田三郎の構造改革路線と対立。39年に党副委員長、40~42年まで党委員長を務めた。