解説
大正2(1913)年、山梨県杣口の母の実家に引きとられるが無籍で小学校に通えず、3年に朝鮮芙江に渡る。三・一独立運動に感銘を受けて帰国後に上京し、新聞売り、女中などをしながら苦学。11年に朝鮮人の朴烈(パク・ヨル)と同棲、不逞社を組織し、『太い鮮人』『現社会』を発刊。12年9月の関東大震災2日後、朴烈とともに拘留され、皇太子暗殺の意図があったとして15年に死刑判決を受ける(朴烈事件)。予審取調室での2人の抱擁写真が出回り「怪写真事件」として政局を揺るがせた。その後、2人とも無期懲役に減刑されたが、文子は服役中に23歳の若さで獄死した。死後、歌集『獄窓に想ふ』、自伝『何が私をかうさせたか』が刊行された。生年は諸説あり。
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