解説
商家に生まれるが、実家が没落したため丁稚を経て上京、東京法学院(後の中央大学)在学中に星亨の書生となり、明治22(1889)年卒業後は星の下で弁護士として活動した。のちに実業界でも活躍する。45(1912)年衆議院議員(当選5回、政友会)に当選すると、原敬の信任を得て、政友会幹事長や原内閣法制局長官等をつとめる。大正10(1921)年ワシントン会議全権随員。原の死後は、高橋是清新総裁を支持して床次竹二郎らの反対派と対立。政友会を第二次護憲運動に参加させ、加藤高明(護憲三派)内閣の司法相をつとめたが、在任中に死去した。
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