解説
父は商人。明治15(1882)年に東京大学法学部法学科を卒業し代言人となる。法律事務に従事する傍ら、東京専門学校(後の早稲田大学)設立の際は大隈重信を補佐し、英吉利法律学校(後の中央大学)の設立発起人の一人となった。18年司法省権少書記官になり、大審院検事・同判事を歴任。22年におきた、旧民法及び旧商法の施行の延期等をめぐる論争「法典論争」の際には、英国法の専門家として延期の意見を展開した。24年大審院判事の職を辞し、再び代言人となる。東京代言人組合会長を3期務めた。衆議院書記官長を経て、31(1898)年に衆議院議員に当選。38年日露戦争後に起こった講和条約反対国民大会においては、主唱者に名を連ねた。
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