明治20(1887)年土佐立志社に入社、専修学校(後の専修大学)卒業後、朝鮮政府内務顧問秘書となる。以後『中外商業新報』記者となり、日清戦争後、臨時台湾総督府鉄道隊勤務。30年台湾総督の命を受けフィリピン群島視察に赴き7年間滞留する。情報収集のかたわら独立運動に関与し、また海外貿易会社マニラ支店長を務める。日露戦争後、樺太庁事務嘱託、41年政友会高知支部幹事長となり、昭和3(1928)年高知県から衆議院議員当選。5年総選挙は落選。坂東鉄道、国本石材、太陽石油等の取締役も歴任した。