父は中農。明治15(1882)年沖縄初の県費留学生として上京。学習院中学科、東京山林学校、東京農林学校を経て、24年帝国大学農科大学卒。同年沖縄に戻り、県技師に就任。農業技術の指導及び砂糖生産拡大の障害となっていた貢糖制度の廃止等に尽力した。しかし奈良原繁知事と対立し、31年農工銀行常務取締に就任した後県技師を辞職。上京して沖縄倶楽部を結成し、機関誌『沖縄時論』を発行して、奈良原県政への批判及び沖縄県民の参政権要求の運動を展開するも挫折。不遇のうちに死去。