漂流民、通訳、教育者。天保12(1841)年漁で遭難し、漂流後の無人島でアメリカ船に救助され渡米。船長の好意でアメリカで教育を受け、嘉永4(1851)年琉球に上陸、取り調べを受けた後5(1852)年土佐に帰郷する。翌年、ペリー来航時幕府より召喚され、中浜姓を授けられ万延元(1860)年日米修好通商条約批准使節の通訳として咸臨丸で渡米。帰国後も小笠原開拓調査、開成所(後の東京大学)教授就任など幕末から明治にかけて活躍した。