宮中政治家。安政5(1858)年の日米修好通商条約の勅許に反対して八十八卿の列参奏上に参画し、翌年謹慎となる。文久2(1862)年に赦され、幕政改革の勅使として薩摩藩島津久光を伴って江戸に赴く。慶応3(1867)年王政復古に伴い参与、以降刑法官知事、集議院長官などを歴任。明治3(1870)年に退官し、麝香間祇候(じゃこうのましこう)の待遇を受けた。