父は鹿児島藩主島津斉興。斉興の長子、斉彬との家督争いに敗れるが、安政5(1858)年に斉彬が没し、自身の長子忠義が襲封すると、国父として藩の実権を握る。公武合体運動の中心的な存在となり、文久2(1862)年藩兵千余を率いて上京。尊攘激派を抑える一方、江戸へ下り幕政改革を推進。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引金となる。後、西郷隆盛や大久保利通が台頭すると、かれらに政局をゆだねた。維新後、左大臣に迎えられるが、政府の欧化政策に反対し辞官、郷里に隠棲。