小説家。共立女子職業学校(後の共立女子大学)入学、硯友社同人で『以良都女』の主宰者である山田美妙に師事する。明治28(1895)年『文芸倶楽部』に「医学修業」を発表、文壇に認められる。同年山田美妙と結婚するも、3か月で離婚。その後も創作活動を続けるが、29(1896)年に23歳で夭折した。執筆中の『五大堂』は遺稿となった。