哲学者。大西家の養子となり、同志社から帝国大学哲学科に学ぶ。明治24(1891)年から31年まで東京専門学校(後の早稲田大学)で講義を担当。またキリスト教系知識人の雑誌『六合雑誌』の編集に従事。31年ドイツに留学し、批判的理想主義に立ち啓蒙活動に尽力した。帰国後京都帝国大学哲学科主任教授を委嘱されたが、病気のため没した。