父は内大臣三条実万。権中納言、議奏、攘夷勅使、国事御用掛などをつとめる。尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、文久3(1863)年尊皇攘夷派の京都追放をねらった8月18日の政変が起こり、七卿落ちの1人として長州に下る。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任。明治4(1871)年太政大臣に就任、18年の太政官制廃止までつとめた。内閣制度創設後は内大臣となり、22年黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任した。