近代日本人の肖像

明治の公衆衛生に尽力した人々

日本に「衛生」という概念をもたらしたのは長与専斎と言われています。彼は明治4(1871)年の岩倉使節団に随行し、欧米で国民の健康の保護を担う行政組織の存在を知りました。帰国後の明治6年に文部省医務局長に就任、8年には内務省に新設された衛生局の初代局長となりました。長与は健康や保健を包括する概念として、中国古典『荘子』の中から「衛生」を自ら選んで命名し、その部署の長となりました。医療や公衆衛生に関する法整備のほか、衛生概念の国民への普及に努めました。


公衆衛生に取り組んだ人物としては、後藤新平も著名です。彼は明治9(1876)年愛知県病院の医師となり、病院長を経て16年に内務省衛生局に入ります。ドイツ留学前の22年には、著書『国家衛生原理』の中で衛生に関する自分の考えを示しています。25年に衛生局長となり、27年には日清戦争の帰還兵による伝染病(特にコレラ)の国内侵入を防ぐため、徹底した検疫を行いました。



衛生という新しい概念を広く国民に浸透させるための民間団体として、明治16(1883)年に大日本私立衛生会が誕生します。会頭には日本赤十字創始者の佐野常民が就任し、長与は副会頭となり、後藤も評議員として名を連ねました。大日本私立衛生会は、演説講話などを通じて、コレラや赤痢の病理やその予防、消毒の理由や方法をはじめ、公衆衛生の内容や必要性を分かりやすく説明しました。こうした働きかけは、伝染病対策に一定の効果があったようです。


<大日本私立衛生会歴代会頭>

軍医でもあった森林太郎(鴎外)は、軍隊を健康維持のためのモデル集団と考えました。強健で体格がよく、病気が流行することはあってはならない軍隊にあって、健康維持のための衛生の体系化を目指したのです。彼が作成にかかわった陸軍軍医学校の『陸軍衛生教程』(明治22年)では、「水・空気・土地・気候・住居・掃除・バクテリア・兵営・外営・兵の看護・赤十字・服装・撰兵・体操・養生・行軍・舟車・囹圄(れいご)・軍病・開手救護・沐浴・飲食」等の項目を挙げて、軍隊での健康、医療、衛生について説いています。



欧米から移入された新しい概念である「衛生」は、明治政府の近代化政策などを通じて、次第に日常生活の中にも浸透し定着していきました。

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