写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<東北>

6 八甲田山

八甲田山
八甲田山 『地理写真帖』より

「八甲田山」は、1つの山の名前ではなく、18の連峰の総称である。北八甲田連峰と南八甲田連峰があり、北八甲田連峰には大岳(標高1,584m)を主峰として、井戸岳(1,550m)、赤倉岳(1,548m)、田茂萢岳(1,334m)など8つの峰があること、ほとんどの山々の形状がかぶとのような形である甲状であることが、「八甲」の由来であると言われている。また、高原性の湿原は「神の田圃」と称されており、八甲田の「田」はここに由来するとも言われている。

今でこそ名の知られた八甲田山であるが、意外にも明治35年(1902)まではほとんど知られていない地域であった。

青森県の自然を愛した文筆家の大町桂月は、大正12年(1923)の寄稿文「雪の八甲田山」に次のように書き残している。

「古来陸奥にて名山として世に知られたるは、岩木山恐山と也。八甲田山は明治三十五年に雪中行軍の惨事ありてより、其名始めて世にしられたり」

八甲田山が全国的に知られるようになったのは、文中の「雪中行軍の惨事」、すなわち明治35年(1902)1月に起きた八甲田雪中行軍遭難事件のためであった。1月23日に陸軍第8師団第5連隊が雪中での訓練を目的として、青森市から八甲田山の田代温泉に向かう途中で、大寒波の襲来により遭難し、210名中199名が死亡した遭難事故である。遭難の具体的な内容は報告書『遭難始末』で知ることができる。

この遭難は新聞により全国に伝えられ、各地から遺族に義捐金が寄せられるなど、八甲田山は日本中の人々に知られる場所となった。また、後に新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』に描かれ、ドラマや映画化もされて、現在でも有名な遭難事故となっている。

ところで、桂月は前の文に続けて「されど、唯恐しき山として知らるゝのみ、山上に温泉ありて優遊するに足ることは、未だ知られざる也。偃松(はいまつ)帯の上に御花畑ありて、高山の特相を具し、天上の神苑の趣を呈することも、未だ知られざる也。十和田湖附近最高の山にして、地勢上十和田湖と共に併せ観ざるべからざる勝地なることも、未だ知られざる也」と記している。実際、八甲田山系は冬場に見せる厳しい気候の一方で、手つかずの自然が残り、春夏には貴重な高山植物が見られる他、山系を覆う秋の紅葉や冬の樹氷など、四季を通じて美しい景観が見られる。

桂月は八甲田が気に入り、南八甲田の中腹に位置する蔦温泉で晩年を過ごした。スキーヤーの三浦敬三(登山家・三浦雄一郎の父)は大正14年(1925)に蔦温泉で桂月に出会った時のことを次のように書いている。

「私たちはかねて名声をきいていた文人、大町桂月に会った。コタツにはいって酒をぐびぐび飲んでいた桂月は、50何歳かのはずだが完全な白髪の老人で感じとしては90歳ぐらいにみえた。ひどいドモリで話が聞きとれず、宿の主人の"通訳"で西村先生(※中学時代の恩師)と談笑していたが、話の内容は蔦温泉や八甲田の大自然の美しさの賛美だったように記憶している」(『大滑降への50年』)

八甲田山は昭和11年(1936)に十和田湖・奥入瀬とともに国立公園に認定され、以来、十和田八幡平国立公園として、季節を問わず豊かな自然を求めて人々が集まる場所となった。冬になると、国道は雪のために閉鎖され、訪れることのできない地域であったが、青森営林局に勤めていた三浦敬三により、冬の山スキーの魅力が紹介されて以来、現在では冬場でも多くの人々が訪れている。

引用・参考文献