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錦絵と写真でめぐる日本の名所

ドイツ大使館

このコラムは、平成19年に電子展示会「写真の中の明治・大正」の中で公開したコラムを移行したものです。内容は当時の記載内容に基づきます。

現在国立国会図書館東京本館が建っている土地は、戦前はドイツ大使館であった。

日本とドイツが交渉を持つようになったのは、万延元(1860)年7月にプロシア使節のオイレンブルグが品川沖に来航してからのことである。幕府は、同12月にプロシアと修好通商条約を結び、プロシアは日本に公使館を置くことが認められた。

プロシア公使館は、初めは横浜の外人居留地に置かれ、ついで麻布に置かれた。明治時代に入り、明治4(1871)年にドイツ帝国が建国されると、プロシア公使館はドイツ帝国公使館となり、翌5(1872)年に新たな公使館の建物が麹町区永田町(現在の千代田区永田町)に建てられた。掲載している画像はこの時期の建物と思われる。しかしこの公使館の建物は、27(1894)年の地震で被災したため、建築家コンドル(J.Conder)の設計により、煉瓦造り2階建ての建物が30(1897)年に完成した。

東京府名勝図絵

独逸大使館

その後ドイツ公使が大使に格上げされたため、この建物もドイツ帝国大使館となった。このドイツ帝国大使館の設計図31枚が京都大学建築学教室に保存されており、国立科学博物館産業技術史資料情報センターのホームページ外部サイトで、そのうちの一部(大使館全体の立体図並びに平面図)を見ることができる。

このドイツ大使館の敷地は、梨木坂を挟んで陸軍省の通用門に面しており、また、南の大通りの向こうには昭和11(1936)年に完成した国会議事堂があるなど、日本の立法府や軍と隣り合わせの、きわめて重要な場所に位置していたことは言うまでもない。そればかりではなく、この立地は首相官邸や霞ヶ関にも近いため、ドイツ大使館が戦前の日本で情報活動を行うにも好都合であったらしく、いわゆるゾルゲ事件もこのドイツ大使館を舞台に発生した。

第二次世界大戦末期の20(1945)年になると、東京を米軍のB29爆撃機の大群が襲うようになり、ドイツ大使館も5月25日夜半からの米軍機の猛爆により徹底的に破壊された(参考:資料に見る日本の近代「Tactical Mission Report Mission No.183」)。

大使館の跡地は、戦後の23(1948)年に新たに設立が決まった国立国会図書館の用地に使用することとなり、36(1961)年に国立国会図書館の新しい建物が完成した。上野、三宅坂、赤坂の三箇所に分散していた蔵書はこの永田町の本館に集中されて開館の運びとなり、61(1986)年に本館に隣接する新館が完成して今日に至っている。

引用・参考文献

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