写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<東京>

5 軍人になるには-明治後期-

軍人になるには-明治後期-の写真
陸軍士官学校 『最新東京名所写真帖』より

日本における近代的な軍隊は、明治元年(1868)1月17日に海陸軍科が設けられたことに始まる。その後、いくつかの変遷を経て、5年(1872)に陸軍省と海軍省に分立し、その後、昭和20年(1945)に解体されるまで並立していた。

さて、制度としての軍隊は軍人によって担われる。軍人とは陸海軍の兵籍にあるものを指している。軍人になるにしても、陸軍と海軍でその道筋が異なっている。また、戦時なのか平時なのか、はたまた明治の初期か、大正の軍縮時代か、昭和初期かなどの時期によっても、その事情がかわってくる。ここでは明治30年代~40年代頃の、軍人になる主なルートを、兵と将校(主に兵科将校について)それぞれについて、陸軍を例として垣間みたい。

陸軍軍人への道

兵卒

ほとんどの場合、徴兵検査を経て軍隊に入る。明治6年(1873)に定められた徴兵令(22年、37年に改正)による徴兵検査で甲種合格になると、現役兵として居住地を管轄する部隊で、3年の期間を過ごすことになる。これまでの生活とはまったく異なった環境へ飛び込むことになり、名誉なこととは言え、本人にとって不安はあったであろう。そこで、入営に際しては、その心得・ハウツー本がいくつも出版されている。例えば、明治33年刊行の『入営心得軍隊実務』の「宣誓式と入隊式」では契約書に実印を押す、実印なき場合は拇印すると言った細かいことから、入隊式から既に入営者の能力等の観察が始まっている旨を述べ注意を喚起するなど、兵としての心得、起居動作から日々の生活に至るまでが紹介されている。

また、現役終了前に志願することで、選抜を受け2年間の部隊教育の後、下士官(伍長)への任官の道がある。

なお、海軍の徴兵事務に関しても陸軍が行っていた。ただ、陸軍の兵卒がほぼ徴兵であったのに対して、海軍ではその多くは志願兵であった。

将校になる

将校(将佐尉官)になる主要なコースである陸軍士官学校士官候補生となる道は次の二通りの道筋がある。

  1. 陸軍地方幼年学校(3年)、陸軍中央幼年学校(1年8ヶ月)を卒業して、士官候補生となり隊付勤務(半年で上等兵から軍曹の階級になる)を経験して、陸軍士官学校(1年7ヶ月)へ進む道。
    陸軍幼年学校とは、地方幼年学校(3年)と中央幼年学校(1年8ヶ月)への入学には中学校一年程度の学力が要求される。入学試験のための問題集も多数出版されている。そこで学ぶ生徒たちの感想文集も刊行されている。
  2. 中学校(5年)を卒業して、士官候補生試験に合格し、隊付勤務(1年で一等卒から軍曹の階級にすすむ)を経験して、陸軍士官学校(1年7ヶ月)へ進む道。
    陸軍士官学校は学費がかからないため、能力はあっても家庭の事情で進学が難しい少年には、魅力的な存在であった。『陸軍士官学校一覧』(明治41年)には第一期(明治23年卒)から第19期(明治40年卒)までの士官学校生徒の出身表が記載されている。これを見ると、「陸の長州」と言われた山口県を筆頭に、特に九州各県からの入校者が多いことが分かる。人口比で見ると、佐賀が最も多く、やはり九州・四国が上位を占めるが、石川・宮城・秋田という旧大藩の城下を持つ県も上位に入ってくる(注)。兵に入営案内があるように、士官を目指す人を対象とした 『陸軍士官候補生受験者用数学撰題』のような試験案内・問題集が刊行されている。

士官学校を卒業後は、隊にもどって見習士官(曹長、半年勤務)をへて、所属部隊の将校銓考会議にかかり、少尉に任官するのである。

このようにして少尉に任官した後、砲兵科工兵科将校は、陸軍砲工学校で更に、専門的な知識を学ぶことになる。

将校になった後に、どこまで昇進するかには、いろいろな要因があるが、陸軍大学校への進学の有無が一つの指標となる。2年以上の隊付勤務を経て、中・少尉から選抜されて、陸軍大学校を受験する。陸軍大学校は参謀本部の管轄であり、高等用兵を学び、将来の幹部将校を養成するための機関である。この陸軍大学校受験に関してもいくつか問題集が刊行されている。その一つ『既往十年間陸軍大学校入学試験問題答案集 戦術之部』を見てみると、高等用兵を学ぶ場の試験にふさわしく 「側面陣地ノ利害如何」と言うような戦術問題や、さらに具体的な状況を示した図上演習問題等も記載されている。また、『陸軍大学校入学初審試験答解並研究』では 「答案構成の要領」として答案作成の際、注意すべき事項や記述方法が記載されている。

(注)第1期から19期の入学者数の平均値を、明治30年の各府県の人口で割った数値で計算。

引用・参考文献