文明開化の戯作者
(かながきろぶん)
1829-1894(文政12年-明治27年)
姓は野崎。幼名は兼吉、長じて文蔵と称するが、維新後、仮名垣魯文と通称する。別号に野狐庵、鈍亭、猫々道人など。
幕末明治の戯作者
江戸京橋の魚屋に生まれた。商家に奉公したが戯作で身をたてようと志し、放浪生活ののち作家となる。
万延元年(1860)滑稽本『滑稽富士詣』が好評を博し、作家として名を高めた。維新後は、『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』などをはじめとして、開化期の世相風俗を題材に鋭い筆を揮った。
神奈川県庁勤務のあと、『横浜毎日新聞』の記者を経て、『仮名読新聞』『いろは新聞』を創刊。政治・社会問題を扱う大新聞(おおしんぶん)に対し、市井の雑報、演劇界・花柳界のゴシップを中心に編まれた小新聞(こしんぶん)にふたたび戯文を連載し、際物作家としての本領を発揮した。享年66歳。
ほかに、「假名垣魯文蔵」「魯文」など9点が知られている。
「かながきぶんこ」:30x20mm
芝居に関するものが多かったといわれる。現時点での当館所蔵魯文旧蔵書は3点であり、いずれも明治期購求本。