シーボルト事件で弾圧された天文学者
(たかはしかげやす)
1785-1829(天明5年-文政12年)
通称:作左衛門、字:子昌、号:蛮蕪、観巣、Globius
天文学者(江戸幕府の天文方)
文化元年(1804)、父の至時(よしとき)のあとを継いで20歳で幕府の天文方となる。書物奉行も兼ねる。西洋の学問の調査・翻訳のため蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)を天文方に設置。ショメル(Chomel, Noel, 1632-1712)の百科事典の翻訳を進めた。語学にすぐれ、海外事情の摂取につとめたが、シーボルト事件で投獄され、獄中で病死した。享年45歳。「新訂万国地図」を製作、伊能忠敬測量の「大日本沿海輿地全図」も景保の監督のもとに完成された。
5種類判明。「高橋蔵書」の朱方印、「求己堂記」の大きい朱方印、ローマ字印(TAKAHASHI)もある。
「求己文庫」(きゅうこぶんこ):76x18mm
「求己堂記」(きゅうこどうき):18x17mm
没収された国書・漢籍は昌平坂学問所に、洋書は楓山文庫に収められ天文方を経て蕃書調所へと保管されたとみられる。
ドイツの医学者シーボルト(Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866)は、文政6年(1823)に長崎出島のオランダ商館員として来日、長崎郊外の鳴滝に塾を開き、日本の蘭科医に医学を教えた。文政9年(1826)には江戸におもむき、多くの蘭学者と交わった。その間、日本の調査のために資料を精力的に収集したが、景保が国外持ち出し禁止の日本地図をシーボルトに贈ったことが発覚し、シーボルトは幕府によって文政12年(1829)に国外へ追放され、多くの関係者が処罰を受けた。
上原久著『高橋景保の研究』(講談社 1977)【GK133-84】