2008年10月に行われた『外交に関する世論調査』(内閣総理大臣官房政府広報室)によれば、アンケートを受けた20歳以上の男女3,000人のうち、アメリカに対して親しみを感じると回答した人の割合は73.3%にのぼったそうです。これは、2番目に高いヨーロッパ諸国の57.6%、3番目の韓国の57.1%と比べてみても、かなり高い数字であると言えます。
現代の多くの日本人が親近感を抱いている国、アメリカ。その首長であるアメリカ大統領と日本人はどのように出会ったのでしょうか。また、アメリカ大統領は、日本でどのように紹介されたのでしょうか。
第3章では、日本人とアメリカ大統領の「出会い」をテーマに、実際にアメリカ大統領に出会った人物による記録や、日本で出版された大統領の伝記などの資料をご紹介します。
アメリカ合衆国が正式に発足し、ワシントンが初代大統領に就任した1789年(寛政元)。その頃、日本は鎖国政策をとっており、アメリカとの国交はありませんでした。
しかし、1853年(嘉永6)、ペリーの浦賀来航によって、閉ざされていた扉がたたかれます。このとき、ペリーは第13代大統領フィルモアの国書(→参考 : 『合衆国書翰和解』【三条家文書2-22】(電子展示「史料にみる日本の近代」))を携えていました。この時点では間接的なやりとりにすぎませんでしたが、この頃から、日本人はアメリカ大統領という存在に「出会って」いきます。
この節では、日本人とアメリカ大統領との「出会い」にまつわる文献をご紹介します。
日本人が初めて出会った大統領。前任のフィルモアの外交政策を引き継ぎ、日本に初の領事館を設けました。
アメリカに帰化した日本人第一号である、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、アメリカ彦蔵とも)の自伝です。江戸見物の帰りに嵐に遭い漂流していたところ、アメリカの商船に助けられ、渡米したヒコは、以後、日本とアメリカを往復する波乱の人生を送りました。ヒコは、1853年(嘉永6)にピアースと面会し、アメリカ大統領に最初に出会った日本人となりました。その後も、ブキャナン、リンカンにも謁見する機会を得ました。
開国之滴 : 漂流異譚 上巻 / ジョセフヒコ著 ; 土方久徴訳 東京 : 博聞社, 明治26(1893) 【289.1-A461k-H】
上記の資料の日本語訳です。タイトルは上巻となっていますが、下巻は刊行されませんでした。本書の訳と、Vol.2を藤島長敏が訳したものを収録した『アメリカ彦蔵自叙伝』(ぐろりあそさえて 1932 【587-342】)が"The narrative of a Japanese"の全訳にあたります。
ヒコが面会した3人の大統領の印象は、次のように表現されています。
「色蒼白く痩肉中丈にて温和なる容貌洒落なる風采威ありて猛からず黒服を着て椅子に憑り態度優に気韻あり」(ピアース)
「黒羅紗のフロックコート着流し小首傾けて応接する態度迫らず 古稀を越へたりと聞けども気色壮者に異ならず当り難き威ありて而も温顔なる風采」(ブキャナン)
「丈高く痩形にして髪黒く頬髯のみ生じ(中略)威ありて猛からずともいふべきか最も誠実の聞へ高く一たび温容に接したるものは之を仰慕有様にて」(リンカン)
日米修好通商条約批准書交換のため、アメリカへ渡った万延元年遣米使節団と、1860年5月(万延元年閏3月)にホワイトハウスにて謁見しました。
遣米使日記 / 村垣範正著 東京 : 東陽堂支店, 明治31(1898) 【79-47】
村垣範正は、万延元年遣米使節の副使を務めた人物です。村垣は、ブキャナンの印象を次のように記しています。「大統領は七十有餘の老翁白髪穏和にして威権もありされと商人も同じく黒羅紗の筒袖股引何の餝(かざり)もなく大刀もなし」。
遣米使節団は、狩衣に烏帽子を着用するなど、国王に対する礼を用いて、大統領に謁見しました。しかし、儀礼の考え方の違いに、村垣は「上下の別もなく禮義は絶てなき事なれは狩衣着せしも無益の事と思はれける」と述懐しています。
ホワイトハウスにてブキャナンに謁見する遣米使節たちを描いた新聞の挿画。遠い異国からやってきた遣米使節たちの姿は、アメリカの新聞に、連日のように報道されました。
岩倉使節団と謁見(『特命全権大使米欧回覧実記』博聞社 明治11(1878) 【34-88】)した大統領です。退任後は、世界を周遊し、日本にも訪れました。
グラント来日時に出版された草双紙のグラント伝。生い立ちから、南北戦争の軍功、世界周遊旅行の様子、日本での歓迎ぶりなどが描かれています。来日の際に新富座(電子展示「写真の中の明治・大正」)で催された招待劇の内容も詳しく記されています。演目の「後三年奥州軍記」では、義家がグラントに見立てられて上演されました。
1974年11月18日~22日、現職のアメリカ大統領として初めて公式に来日しました。また、翌1975年には、初めて昭和天皇をワシントンに迎えました。
日本人の屈折した心をどこまで理解できたか--典型的米国人フォード大統領 / 宮沢 喜一 (朝日ジャーナル 16(48) 1974.11.29 p.9-12【Z23-7】)
のちに第78代内閣総理大臣を務めた宮沢喜一衆議院議員(当時)による記事です。フォードを「典型的な良いアメリカ人」と評価しつつ、日本人の一種屈折した心理を理解してもらうのは難しいかもしれないと語っています。しかし、「わからないということをわかってもらうこと」が大事であり、また、今後の日米関係を考えていくうえでは、日本人の自己表現が必要と論じています。
"日米合作忍者部隊"の5日間--フォード大統領警備見聞記 / 鈴木 卓郎 (自由 17(2) 1975.2 p.44-53【Z23-116】)
フォード来日時の警備には、15万人を超える日本の警察とアメリカのシークレット・サービス約100人が動員されるという厳戒態勢が敷かれました。初の公式来日が無事に幕を閉じた一方、「民衆にじかに触れることのなかった大統領は不満のようでもあった」という指摘もあったようです。
日本の国会で最初に演説したアメリカ大統領です。中曽根康弘首相(当時)と「ロン・ヤス」で呼び合い、日米間の親密な外交関係をアピールしました。
休戦国会、ウイットにわく 福沢諭吉や芭蕉引用 日本語使いきずな誇示 (朝日新聞 1983.11.11 夕刊 p.15 【YB-2】)
1983年11月9日~12日に来日したレーガンは、同11日に国会で演説を行いました。当時、国会は、10月に田中角栄元首相がロッキード事件の第一審判決で有罪判決を受けて以来、空転が続いていましたが、この日は「一日だけの和解」とあいなりました。演説には、福沢諭吉や芭蕉が引用され、「ニチベイノ、ユウコウハ、エイエンデス」と日本語で話す場面もありました。
Address Before the Japanese Diet. November 11,1983 (Weekly Compilation of Presidential Documents. Volume19 Number 46 pp.1561-1566 【CU-2-2】)
上述の国会の演説内容(英文)が掲載されています。Weekly Compilation of Presidential Documentsは毎週月曜日に発行され、前の週に大統領が発した公文書、布告、教書、演説、記者会見などが掲載されます。
華盛頓、華聖東、話聖東、和師旡登無
林根、林格倫、琳閣倫、倫古龍
これらの漢字は、ふたりの人物の名前をあらわしています。それぞれ誰のことを指しているか、わかりますか? 正解は、歴代アメリカ大統領のなかでも知名度抜群のワシントンとリンカンです。「建国の父」と称えられるワシントン、最近はオバマ現大統領が尊敬する人物としても注目されるリンカンのふたりは、日本でも早くから知られ、伝記に描かれました。また、日本でのふたりの共通点として、修身の教科書に登場していることが挙げられます。
以下では、明治期の日本の人々とワシントン、リンカンとの「出会い」をとりもったであろう資料をご紹介します。
通俗和聖東伝 巻之上, 下/ 長沼熊太郎訳 ; 為永春水解 ; 鮮斎永濯画 : 南部利恭, 明治6(1873)序 2冊【特32-141】
著者の長沼熊太郎は、元南部藩士。明治6(1873)年から明治8年頃まで太政官翻訳局に出仕していましたが、職を辞して、明治10年に雑誌『輿論新誌』【YA5-92】を発刊し、民権拡張を論じました。元狩野派の絵師で、幕末から明治初期に活躍した小林永濯が挿絵を描いています。当館が所蔵する巻之一、二では、ワシントンの幼少期から青年期までを扱っています。13歳にして商法に通じるなど、才智あふれるワシントンのエピソードが紹介されています。また、母メアリーも「仁義礼智」、「孝悌忠信」をもって教育した賢母として称えられています。
尋常小学修身書 児童用 第3学年 (国定修身教科書 : 複刻 第1期 / 文部省著 東京 : 大空社, 1990 明治36(1903)年刊の複製【FC49-E25】)
第12課に、有名な桜の木の逸話が紹介されています。しかし、この逸話は伝記作者による創作と考えられています。
メーソン・ロック・ウィームズが著したワシントンの伝記の初版(1800刊)にはなかったこのエピソードは、第5版(1806刊)になって初めて登場しました。
唱歌「ワシントン」(作詞者不詳。北村季晴作曲)は、「ロッキーおろし、吹き荒れて、ハドソン湾に、浪さわぎ」といった壮大な歌詞で独立戦争におけるワシントンの軍功を称えています。ちなみに、この曲に、慶應義塾大学の野球選手であった桜井弥一郎が作詞した替え歌が、 慶應義塾大学の応援歌として使われました。
阿伯拉罕倫古竜伝 / 松村介石著 東京 : 丸善, 明治23 (1890) 【18-219】
リンカンは「丸太小屋からホワイトハウスへ」を実現した立身出世の人として、日本でも数多くの伝記が記されました。
松村介石はキリスト教に基づく「日本教会」(のち道会と改名)の創立者。リンカンの幼少期からその死までの艱難に満ちた人生を記し、読者に向けて「大艱大苦の波濤に克て。尚良く運動するもの。之を眞の英傑とは云ふなり」とメッセージを送っています。
高等小学修身書 児童用 第2学年 (国定修身教科書 : 複刻 第1期 / 文部省著 東京 : 大空社, 1990 明治36(1903)年刊の複製【FC49-E25】)
第11課~第15課までの「勉学」「正直」「同情」「人身の自由」の項目にリンカンが登場しています。1里半の道のりを往復して学校に通ったり、近所の人たちから本を借りたりして勉学に励んだエピソードや、泥にはまった豚を救ってあげたエピソードなどが紹介されています。
アメリカでは、1978年に成立した「大統領記録法(Presidential Records Act)」によって、大統領在任中、ホワイトハウスの公務で作りだされる文書はすべて連邦政府に帰属するものと定められています。通例、大統領が退任すると、そのゆかりの地に大統領図書館が建設されます。2009年3月現在、第31代のフーヴァーから第42代のクリントンまで、12の大統領図書館の管理・運営をアメリカ国立公文書館が行っています*。また、2009年1月に退任したブッシュ前大統領の大統領図書館も開館が予定されています。
アメリカ国立公文書館の傘下にある大統領図書館以外にも、大統領文書を保存・公開している機関もあります。Ex:ヘイズ大統領センター(The Rutherford B.Hayes Presidential Center)
研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド / 仲本和彦著 東京 ; 凱風社, 2008 【UL331-J1】
第5章「カレッジ・パーク以外のNARA傘下施設」第2節「大統領図書館」
アメリカ合衆国大統領図書館--設立の経緯とその文化・教育的意義 / 藤野 寛之 (サピエンチア. (42) 2008.2 p.87-102 【Z22-307】)
海外リポート-3-アメリ力の大統領図書館をたずねて / 白上 未知子 (学校図書館. (606) 2001.4 p.81-87 【Z21-148】)
大統領図書館を訪ねて / 泉 昌一 (びぶろす. 36(1) 1985.1 p.9-13 【Z21-114】)
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参考文献