アフリカは古来から、貿易や人の移動を通して世界各地とつながっていました。下の写真はタンザニアで首飾りに使われていた古銭です。乾隆通宝と刻まれていることから清朝のものと思われ、当時も人や物品の往来があったことをうかがわせます。
当然、アフリカで生まれたものは日本にも辿り着いています。一方で日本も、自動車などの工業製品に限らず、さまざまな形でアフリカに影響を与えています。この章では、そのような日本とアフリカのものを介した交流について紹介します。
古銭が使われた首飾り(筆者蔵)
上の図は、屈強な男たちがスイカを奪い合う、なんとも愉快な「西瓜合戦」の錦絵です。水泳や武芸の鍛錬という目的があるのかもしれませんが、説明がないため詳細は不明です。真剣な表情の彼らは、いったい何を思っていたのでしょうか。
この絵からもうかがえるように、スイカは日本の夏の風物詩と思われていますが、「はじめに」で紹介したように実はアフリカ原産の植物です。『日本大百科全書』【UR1-G71】によれば、南アフリカのカラハリ砂漠を起源とし、シルクロードを経て日本に入ったようです。渡来は15~16世紀といわれていますが、当時はあまり普及せず、広く栽培されるようになったのは明治以降だそうです。
天ぷらや和え物など和食の食材となるオクラも、アフリカが原産地です。アメリカ経由で持ち込まれたために、「あめりかねり」と呼ばれ、戦前の植物図鑑ではアメリカ原産と紹介されていることもあります。しかし、『農業世界』【Z18-398】昭和9年4月号掲載の「新らしい副業 アメリカネリの栽培と加工」という記事では「阿弗利加の原産で、二千年以前よりエジプトに栽培されてゐたといふ」と、正しい記述がなされ、栽培法などについて解説されています。食べ方も多く紹介されていますが、料理するだけでなく完熟した種を煎って「コーヒーの代用に供」するともあります。
一方、本物のコーヒーも、アフリカを原産とする植物です。スイカやオクラのように日本の土地で多く栽培されるようになったわけではありませんが、飲料としてはそれらに勝るとも劣らないほどに普及しています。『大植物図鑑』【R470.38-Mu46-2ウ】という戦前の植物図鑑では、植物としての特徴だけでなく、コーヒーの飲み方も解説されています。しかし「コヒーノキ」の項目なのに「珈琲ノ代用品」までもが多く挙げられているのは、まだコーヒーが高価であったことを示しているのでしょうか。
アフリカの芸術は、美術への影響やさまざまな種類の音楽として広く世界に知られていますが、日本ではどのように受容されてきたのでしょうか。
8)洪洋社編『アフリカ土人芸術』洪洋社, 大正14(1925)【542-34】
大正14年に発行されたこの資料が、日本にサハラ以南アフリカの芸術が紹介された嚆矢であると考えられています。彫刻類が「独特な写実的能力に優れてゐる」とされ、豊富な写真で紹介されています。収録されているのは「白耳義領及佛領コンゴー地方を中心とし、更に西部アフリカのギニヤ地方及アイヴォリィ・コースト地方のもの」です。
また数年後、昭和4年6月21日の『読売新聞』【YB-41】では、アフリカの「家庭で日常使用される」道具類が「健康な美」をもっていると述べられています。他にも『朝日新聞』【YB-2】昭和11年3月7日には「南米アフリカ児童芸術展覧会」の広告があるなど、戦前からアフリカの芸術は日本で紹介されていたようです。
9)意匠美術写真類聚刊行会編『埃及ツタンカーメン王宝器集』(『意匠美術写真類聚』第2期第1輯 )洪洋社, 大正12(1923)【515-27】
アフリカの動物たちは、日本の動物園やサファリパークで大人気です。ゾウやキリン、ライオンなどの大型動物のほか、チンパンジーやゴリラなどの霊長類も、アフリカ大陸にしか生息しない種が少なくありません。
10)東京市公園課編『上野動物園案内』東京市, 大正14(1925)【14.5-124】
11)新光社編『世界地理風俗大系 XVII』新光社, 昭和3(1928)【290.8-Se1222-S】
本書は、日本で初めてのアフリカ図鑑です。「動物」の項は、第1章で紹介された蜂須賀正氏が執筆しており、さまざまな動物が掲載されています。カラーで掲載された迫力あるカバの絵や、かわいらしい姿ながら獲物に食らいつく力強さをもった子獅子の写真などが印象的です。
これらの動物は、戦前には西欧の動物園から購入することが多かったようです。直接アフリカに動物たちを入手しに行ったのは、戦後昭和26(1951)年の上野動物園職員、林寿郎が最初で、その経験は『アフリカの猛獣狩』【児480.49-H411a】という本に記されています。「九十五馬力の装甲車」で追いかけ「竹サオの先につるしたロープの輪をキリンのくびにかけ」て捕獲する、人の身長よりも高い「丈夫な木柵をつく」り「一にぎりの塩」で大きなカバを誘い込み生け捕りにする、といったスケールの大きな「猛獣狩」をしていたようです。
なお、「はじめに」で紹介したとおり、ネコ科ということではライオンやヒョウと共通するいわゆる「ネコ」(イエネコ)も、リビアヤマネコをもとに古代エジプトで最初に家畜化されたと言われています。
蚊はあまりありがたくない夏の風物詩ですが、日本では日本脳炎の予防接種が普及したこともあり、刺されてもかゆみ以上の害はあまりありません。しかしアフリカでは、いまだ有効なワクチンの存在しないマラリアやデング熱などの伝染病を蚊が媒介するため、刺されるのを防ぐことは日本以上に重要な課題です。それに対して、日本の伝統が貢献していることを紹介します。
蚊を駆除するために植物の葉などを燃やすことは各国で行われてきましたが、除虫成分を線香に練り込んだ「蚊取り線香」は、明治23(1890)年に日本で創案されたものです。蚊取り線香を普及させた功労者のひとり、安住伊三郎は、『欧亜両洲をおとづれて』【特232-697】という著作に、アフリカを訪れた経験を記しています。『商店界』【Z4-148】第十五巻第一号の「商戰勇者の戰術を解剖す――蚊取線香王の卷」という記事にも、エチオピアの名誉領事であったなど、彼とアフリカとの関わりが述べられています。現代のアフリカでも、日本と同じ渦巻型の蚊取り線香が売られています。
一方、蚊取り線香の原料となる除虫菊は、『世界有用植物事典』【RA2-J54】によると日本が「1935年ころは…世界第1位の産量を誇り,その9割は輸出されて重要な輸出品目」でしたが、現在では日本での栽培は少なく、アフリカの「ケニアが世界一の産地となって」います。みなさんが使う蚊取り線香も、アフリカの除虫菊で作られているのかもしれません。
また、蚊帳も日本などで伝統的に用いられてきたものですが、アフリカでの蚊対策として注目されています。現在、日本企業がタンザニアに工場を建設して現地生産を行うなど、普及活動が行われています。『JICA’s World』【Z71-W855】2009年2月号の「PLAYERS 日本の防虫蚊帳でマラリア撲滅を」 [PDF 1.14MB] という記事などに、そのような蚊帳の写真が掲載されています。
『レファレンス』【Z22-554】平成20年12月号収録の記事「我が国ODAの課題―アジア及びアフリカに対する援助を中心として―」によれば、蚊帳の製造は「2004年の3000万張りから2007年には9500万張りへと増加」し、「2000年頃から蚊帳の利用が3倍以上に伸びている」とのことです。
蚊という小さな生き物への対策を通じて、日本とアフリカが相互につながっているとは意外ですが、興味深いことと言えるのではないでしょうか。
日本の武道である柔道や空手は、現在では世界各国に広まっていますが、アフリカもその例外ではありません。アフリカ柔道連盟は1961年に結成され、2009年現在では48カ国が加盟しています。ロサンゼルス五輪の柔道無差別級決勝戦で山下泰裕と対戦し、山下の負傷した足を攻撃しなかったとして「国際フェアプレー賞」を受賞した、エジプトのモハメド・ラシュワンを記憶している方も多いかと思います。
『52-2次隊 協力隊派遣受入希望調査表』(国際協力事業団青年海外協力隊事務局, 1977)[PDF 4.76MB] は、オンラインで公開されている中では最古の、青年海外協力隊の受入希望調査表です。この時点ですでに柔道や空手という分野が見られ、チュニジアやザンビアから受入希望が出されています。現地では、競技団体のほか警察官等が武道を学ぶこともあり、技術だけでなく礼を重んじる人間形成の面からの期待もあるようです。
ただし、『クロスロード』【Z24-195】2005年5月号によれば、「空手」が日本のイメージを形作っている一方で、「カンフー映画の人気が高い」ため、その動作が影響を与えてしまうこともあるようです。それぞれの国の独自性を伝えていく努力も必要かもしれません。
こうした事例は、交流のごく一部にすぎません。第1章、第2章でみたように、直接人が行き来することも重要な事例です。また、日本では「少年ケニヤ」や「ターザン」、アフリカでは「おしん」のようなエンターテインメントを通して、相手国のイメージが作り上げられていくこともあります。時には、誤解に基づくものがあることも事実ですが。しかし、意外なところに相手国に由来するものを見つけ、親しみを感じることで、相互理解が進むのではないでしょうか。
現在でもアフリカに行くのは決して手軽とは言えませんが、第二次大戦前の時代ではなおさらのことでした。明治31(1898)年にケープタウンに旅立った古谷駒平の場合、日本から南アフリカへの直接航路がなかったため、横浜から香港、シンガポール、ボンベイで船を乗り継ぎ、目的地に到着するのに6カ月以上かかったようです。
日本とアフリカを直接結ぶ航路は、大正15(1926)年に大阪商船が開設したアフリカ東岸線によって初めて開かれました。同年の『海』【雑31-144】に掲載された記事によると、毎月一回神戸を出港し、門司、香港、シンガポール、コロンボ、モンバサ、ザンジバル、ダレサラム、ベイラ、デラゴアベーと寄港し、ダーバンまで約50日、モンバサまで35日で到着しました。それまでのムンバイ、アチェ経由に比べるとそれぞれ15日、25日の短縮になるとあります。第1章で紹介した『実地踏査東アフリカの旅』【578-173】の著者白川威海は、この東アフリカ航路第一船のかなだ丸に乗船しました。
第二次大戦後は空路が開かれたことにより、アフリカへの時間的距離は劇的に減少しました。とはいえ、例えば昭和32(1957)年の『外国旅行案内』【290.9-N685g-(1957)】によると、日本からエジプトまでの所要時間は39~45時間とあり、決して楽な旅ではなかったようです。また、日本からアフリカへの直行便は現在に至るまでごくわずかしか存在せず、アフリカ諸国に飛ぶためには、ほとんどの場合アジアかヨーロッパを経由する必要があります。昭和54(1979)年にナイジェリア、コートジボアール、セネガル、タンザニア、ケニアの5カ国を訪問した園田外務大臣(当時)の滞在記録によると、往路は成田-ロンドン-ジュネーブ経由でラゴスに到着し、帰路はナイロビからローマ-アムステルダム-コペンハーゲンを経て成田に帰着しています。(ただし、ジュネーブとアムステルダムには、それぞれインドシナ難民対策会議出席とオランダ公式訪問のため滞在。)
国内初のアフリカ直行便は平成7(1995)年に就航したエジプト航空で、関西空港-カイロ間を結びました。当時の新聞記事によると、所要時間は約13時間で、当時マニラとバンコクを経由していた成田発の便と比べると約8時間短くなりました。
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