第2章 武家の成人

宮中や公家の間で始まった元服の儀式は、武家社会にも広まりを見せました。
第2章では武家の成人儀礼について紹介します。

怪童丸烏帽子着之図

源頼光四天王の一角として知られる怪童丸(坂田金時)の元服風景を描いた浮世絵

儀式と年齢

武家社会で元服が行われるようになったのは、平安時代末期からと考えられています。
将軍家や大名家の元服の儀式は、公家と同様の流れで加冠の儀が行われます。加冠後は、酒肴の饗応などが行われ、加冠の役が幼名に代わる実名を与えた後、立身出世を祈る為に武勲の人などの功名談を聞かせたようです。
武家の中でも身分の軽重により作法は異なりますが、元服時の年齢はおおよそ11歳~17歳でした。例えば、鎌倉幕府3代将軍源実朝(1192~1219年)は12歳で元服し、弓始めや小笠懸(こかさがけ)などが行われ、元服の翌年の正月には読書始めの儀式が行われました。
弓始めは年の始めに初めて弓を射る儀式ですが、実朝の場合は、将軍職に就いて初めて弓を射る儀式のことを指しています。小笠懸は4寸(約12センチ)四方の小さい的を馬上から射る競技です。これらは、公家では行われなかった、武家ならではの習俗です。

新刊吾妻鏡

実朝の元服

男衾三郎絵詞

笠懸の場面。武士にとっては弓馬の芸ができるようになることが成人には不可欠だった。

読書始めとは、禁中や将軍家などで行われていた新年行事の一つで、その年で最初の読書をします。実朝の元服の翌年の読書始めでは、『孝経』がテキストとして使われました。『孝経』は中国の経書(儒教の教えを記した書物)の一つで、孝のあり方を説いたものです。日本でも古来広く読まれ、読書始めでよく使われました。このような家の年中行事に加わることも、成人として認められたことを意味していました。

古文孝經

将軍家や大名家の跡継ぎの場合には、政治的な理由などから、その元服年齢は平均から大きく外れる場合がありました。
例えば、室町幕府6代将軍足利義教(1394~1441年)は36歳で元服しました。義教は元服前の幼少期に出家したために、次期将軍に決定した時点で元服を迎えておらず、成人と認められていませんでした。そこで、俗世に戻り髪が伸びるのを待って元服式を行い、将軍職に就きました。

肖像選集

足利義教

また、江戸幕府4代将軍徳川家綱(1641~1680年)は5歳で元服を迎えています。これは、家綱が父・徳川家光が38歳の時にようやく誕生した男子であったこと、そして当時病気がちであった家光が、急ぎ元服の儀式を行い、跡継ぎとして広く公表することで将軍家の安泰を図ったことによります。5歳で元服(加冠と改名)を済ませた家綱は、身体的な成長を待って、16歳と19歳で頭髪と衣服を成人のものに改めました。

肖像選集

德川家綱像

このように、元服の儀礼は、成人の証であるだけでなく、将軍職・家督を継ぐものの資格として重要な意味を持っていました。そのため、将軍家や大名家の男子の元服は、身体的成長とは無関係に政治的にその時期が決められ、本来は加冠と一体化していたはずの頭髪と衣服を改める儀式は身体の成長を待って行うようになったのです。

烏帽子親子と改名

公家社会では後世まで冠が用いられましたが、中世以降の武家社会では烏帽子が用いられたため、加冠の役の人(第1章参照)を烏帽子親といい、冠をかぶせてもらう人(元服する人)を烏帽子子といいました。

冠帽図会

立烏帽子

元服の際、烏帽子子は幼名を改めて実名と呼び名(通称)を授かりますが、この時、烏帽子親から一字をもらう慣習がありました。『平治物語』には、源義経が郎党の伊勢三郎(?~1186年)に「義」の字を与えて「義盛」と名付けたことが記されており、治承・寿永の内乱期(1180~1185年)ごろには、武家の間では一般的に行われていたと考えられています。

古事類苑

平治物語 牛若奥州下事

他にも、徳川家康(1543~1616年)の場合、幼名を竹千代、元服時の名前を元信といいましたが、「元信」の「元」は、当時人質として暮らしていた今川家の当主、今川義元の一字を与えられたものです。これは、改めて義元と主従関係が結ばれ、今川氏の配下になったことを意昧しました。後に家康と名前を改めますが、この改名は、義元から与えられた「元」の字を変えた事で、名実ともに今川家と決別したことを象徴しています。
この徳川家康の例から、烏帽子親子の関係が封建的主従関係の証となっていたことが分かります。

肖像

德川家康(奥)

月代さかやき

将軍家や大名家のような上級武士の間では近世においても烏帽子を用いて元服の儀式が行われましたが、下級武士の間では、室町時代頃から、烏帽子に代わり月代をつくることで成人とみなされるようになります。月代とは、烏帽子が当たって擦れる額のきわから頭頂部までを剃ったものをいいます。

武家諸礼集

髪結いの図

元来、公家、武家ともに日常生活で頭に冠や烏帽子を着用していましたが、戦乱が続くようになると、武家社会では烏帽子を着用する習慣が薄れ、甲冑(かっちゅう)姿で頭が蒸れることから月代を剃るようになり、戦いが終わると同時にもとに戻していました。しかし、室町時代に入って応仁の乱(1467~1477年)など戦いが長く続くようになってからは、戦乱が終わった後も、月代をあけておくのが習わしとなりました。烏帽子をつけずに頭をむきだしにするのが一般化しても、元服における烏帽子親子の名称は、そのまま用いられました。

次へ
第3章 庶民の成人



ページの
先頭へ