ここでは、子どもの成長を祝う通過儀礼の一つである七五三のお祝いがどのようにして現在のような形になったのかをご紹介します。
七五三のお祝いの源流は、男女3歳児の「髪置(かみおき)」、5歳男児の「袴着(はかまぎ)」、7歳女児の「帯解(おびとき)」など、主に公家社会で行われていた儀式にあるといわれています。それが近世に入って武家や江戸の裕福な商人にも広まり、子どもの成長を祝うために親子で氏神へ参詣するという、今日の「七五三」の原型が成立しました。
東京の都市部の庶民に広まったのは明治時代に入ってからといわれています。このころ、子どもに晴着を着せ、千歳飴を買うという今日のような風習が根付きました。千歳飴の起源については諸説あります。その一つに、元禄・宝永期(1688~1711年)に浅草で飴売りをしていた七兵衛が、もともと「千年飴」などという名で売り歩いていた飴を、寿の字や鶴亀を描いた紙袋に入れて売るようにしたところ、めでたい縁起物として広まったというものがあります。
ただ、「七五三」という呼称が定着し、行事が日本各地に広く浸透したのは第二次世界大戦以降、それも高度経済成長期に入った1960年代のことでした。もともと地方都市や農村では、3歳、5歳、7歳それぞれの祝いはあっても、その全部を祝う風習はないところが多かったのです。全国から人が集まる江戸(東京)で、祝う年齢や性別の異なる様々な地域の風習が混ざった「七五三」という祝い方が生まれ、それが全国に普及して現在に至ると考えられています。
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おわりに・参考文献