鉄道の開業は、日本人の時間感覚に影響を与えました。また、その後の延伸と技術革新に伴って、鉄道はヒトやモノをより速く、より遠くまで運ぶことが可能になります。
第1章では、開業初期の鉄道が人々の時間感覚に与えた影響を紹介するとともに、現在の東海道本線を中心に鉄道の高速化の道のりをたどっていきます。
明治の初め頃まで、人々は、不定時法(昼夜をそれぞれ6等分して時間を決める方式)を用いて生活しており、最も小さい時間の単位は、一般的には「小半刻」(約30分)でした。
しかし、鉄道の運行には、運転間隔を規則正しく一定にする必要がありました。そこで、明治6(1873)年から太陽暦とともに定時法が導入されるのに先立って、鉄道開業当初から、時刻表に表示された鉄道の運行時間には、「何時何分」という分単位の時間が使われました。鉄道の運行時間や注意書きの表記は、人々に分刻みの時間を体感させました。
左から3行目に、発車時刻の5分前には駅への立ち入りを禁じる注意書きがあります。上の時刻表では「時」ではなく「字」を用いています。これも「時(とき)」と間違わないようにするためですが、「ジ」ののちに「字」をあてていた時期がありました。
開業から10年ほど経つと、官設鉄道の延伸が進むとともに、私設鉄道の参入も増え、連絡輸送が想定されはじめたことで、時刻の統一が重要課題となりました。そこで明治20(1887)年には、「営業線路従事諸員服務規程」が定められ、官設鉄道における標準時の伝達方法などが定められました。
鉄道は、移動時間の画期的な短縮を実現しました。かつて江戸時代の旅人が1日程度かけて歩いていたとされる距離を、開業当初の鉄道はなんと1時間未満(53分)で運行していました。なお、開業翌年の明治6(1873)年には、旅客輸送に加えて貨物輸送も本格的にはじまりました。
各地で官設鉄道の建設や延伸が進められ、明治22(1889)年には、新橋~神戸間が全て開通します。これが現在の東海道本線になります。当初は直通列車で新橋~神戸間は約20時間かかりましたが、江戸時代の旅人が江戸から京都まで2週間程度かけて歩いていたことに比べると、大幅な時間短縮でした。
新橋~神戸間の運行時間は、その後も徐々に短縮されていきます。明治29(1896)年には急行列車が設定され、新橋~神戸間を約17時間で運行しました。明治39(1906)年には13時間40分に、さらに明治45(1912)年には、新橋~下関間で特別急行列車(特急)の運転が開始され、新橋~神戸間を約13時間(新橋~下関間は約25時間)で運行しました。
昭和5(1930)年、愛称が付いた新たな特急列車「燕」が誕生します。特急「燕」は東京~神戸間を約9時間で結び、昭和9(1934)年の丹那トンネル(静岡県熱海市)開通後は東京~大阪間を約8時間、東京~神戸間を約8時間30分で走るようになりました。
戦時中や終戦直後には特急列車が廃止されていた時期もありましたが、昭和24(1949)年、「へいわ」の愛称で東京~大阪間に特急列車が復活し、翌25(1950)年からは公募による改称により、再び「つばめ」の愛称が用いられるようになりました。
また、明治以来、鉄道の電化が徐々に進みました。鉄道の電化は、機関車の牽引力を増幅し、速度を向上させ、輸送力も増大させました。昭和25(1950)年には、振動や騒音のため長編成・長距離には向かないとされていた電車(各車両に動力をつけて自走する方式)が改良され、東京~熱海・沼津間の列車が電車運転になりました。この電車は、「湘南電車」と呼ばれました。
東海道本線では、昭和31(1956)年に支線を除く全線が電化され、電気機関車が牽引した特急「つばめ」は、東京~大阪間にかかる運行時間を約7時間30分にまで短縮しました。
昭和33(1958)年、ビジネス特急と呼ばれる「こだま」が運転を開始します。「こだま」は史上初の電車による特急であり、東京~大阪間を6時間50分、東京~神戸間を7時間20分で運行しました。
そしてついに昭和39(1964)年、東海道新幹線が東京~新大阪間で開通しました。開通当初は、東京~新大阪間を、超特急「ひかり」が4時間、特急「こだま」が5時間で運行していました。
現在、新幹線は各地に延伸し、長距離移動の重要な手段として活躍しています。
次は 第2章
産業
For Industry