第4章 旅行・観光

鉄道の開業によって、旅も様変わりしました。街道を歩いて旅をする人々は次第に姿を消し、より遠方の寺社や名所へ気軽に旅行できるようになりました。
第4章では、鉄道と旅行・観光の関わりについて紹介します。

初詣のはじまり ~鉄道が生んだ年中行事~

鉄道によって新たに生まれた行事に初詣があります。江戸後期の正月参詣は、初縁日・氏神・恵方などによって、その日取りや参詣すべき寺社が定められており、基本的には市街地から歩いて行くことができる寺社への参詣が主流でした。

川崎大師

川崎大師の初縁日(初大師)は1月21日で、多くの人々が江戸の市街地から川崎大師まで、約1日かけて徒歩で参詣に出かけていました。

東海道名所風景

江戸時代の名所絵に描かれた川崎大師

明治5(1872)年、川崎停車場が設置され、新橋~横浜間の鉄道が開業すると、初大師は新橋から鉄道でやってくる参詣客で賑わうようになり、アクセスの良さから元日の恵方詣の対象にもなりました。
1880年代半ば頃には、縁日にも恵方にもこだわらない「元日の川崎大師詣」が定着し、これが「初詣」と呼ばれるようになったのです。
その後、明治31(1898)年に大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄)が設立され、翌年には川崎大師の縁日にあわせて、川崎停車場付近からの参詣用電車を開通させます。これにより、さらに手軽にお参りができるようになりました。

最近の十年
大師参道詣への電車

最近の十年
初大師の賑わい

成田山新勝寺

成田山新勝寺は、江戸時代の中頃から不動信仰の中心として多くの参詣客を集めていました。明治元(1868)年当時、東京から成田山への参詣は、船と徒歩を組み合わせ、片道だけで一泊二日もかかる旅でした。

成田山史

成田詣の図

明治27(1894)年の総武鉄道・本所~佐倉間開通により、所要時間は3時間半にまで短縮されました。
さらに、明治30(1897)年の成田鉄道・佐倉~成田間が開通すると、成田山新勝寺は現在に至る人気の初詣先として名を連ねるようになりました。

成田鉄道案内
成田鉄道案内

京成電鉄五十五年史
初詣客で賑わう成田駅

国による鉄道旅行の促進 ~鉄道旅行のすゝめ~

鉄道の発達とともに、鉄道旅行も普及していきました。旅行を促進する仕組みとして、明治45(1912)年に発足したジャパン・ツーリスト・ビューロー(現:JTB)は、大正末期からクーポン式遊覧券の代売に注力するようになりました。クーポン式遊覧券とは、乗車券・乗船券・自動車券をセットにし、これに旅館券をつけて一冊に綴じ込んだ切符です。

旅はクーポン : 附・クーポンコースと共に

ジャパン・ツーリスト・ビューローのクーポン式遊覧券発売十周年を記念した出版物
昭和10(1935)年に発売十周年を記念して『旅はクーポン』が発売されます。これはクーポン券の説明をはじめ、指定遊覧地での紹介文、旅行日程表、遊覧経路図を載せた旅行案内書でした。

また、国の鉄道監督機関が編纂した旅行案内書が発行されていきます。最初に発行されたのは、明治38(1905)年8月の『鉄道作業局線路名所案内』でした。これはその後も『鉄道院沿線遊覧地案内』、『鉄道旅行案内』と改称され、発行され続けます。

さらに、大正8(1919)年以降、テーマ別案内書『神まうで』、『温泉案内』、『お寺まゐり』、『日本北アルプス登山案内』、『スキーとスケート』などを続々と刊行しました。

神まうで

神まうで

温泉案内

スキーとスケート

大正10(1921)年、鉄道開業50周年を記念して、新装版『鉄道旅行案内』が発行されます。これは多数の景観図を収録したもので、当時人気を博したといいます。さらに大正13(1924)年に出された改訂版では、前版に引き続き挿絵を担当した吉田初三郎の名が明記され、彼の描いた鳥瞰図102点が含まれました。その色鮮やかな情景は多くの人々の旅情を誘ったと想像されます。

鐵道旅行案内
鉄道旅行案内

鐵道旅行案内
東海道線

週末の行楽 ~郊外リゾートへの小旅行~

明治から大正へと時代が進むにつれ、いわゆる「新中間層」と呼ばれるサラリーマン層が現れます。彼らは忙しい日々の中でも、日曜日の日帰り小旅行や、年末年始休暇などを利用した一週間ほどの日程で旅行を楽しもうとしていました。そうした動向を巧みにとらえたものとして挙げられるのが、『郊外探勝その日帰り』などの旅行案内書です。

郊外探勝その日帰り

名勝案内圖 東京から一・二泊

『郊外探勝その日帰り』に掲載されている景勝地の一つに、江の島・鎌倉があります。現在も多くの人々が訪れる観光スポットです。
藤沢、鎌倉、葉山、逗子を中心とした湘南地域は、官設鉄道の東海道線や横須賀線、私設鉄道の江ノ島電気鉄道の開業を契機として、小さな漁村から海浜リゾートへと変貌していきました。東京などの市街地から多くの旅行客が訪れるようになり、特に夏は海水浴客で賑わうようになったのです。

江ノ電六十年記

江ノ電六十年記

また、『名勝案内圖 東京から一・二泊』に掲載されている景勝地には、箱根があります。もともと湯治場としての色彩が強かったものの、大都市と温泉地を結ぶ交通機関が発達したことで、一躍観光地に転換することとなります。
小田原急行鉄道が昭和2(1927)年、新宿~小田原間を開通させ、同年小田原電気鉄道(現:箱根登山鉄道)と連帯運輸契約を結びます。小田原電気鉄道の経営する路面電車と、箱根湯本~強羅間の山岳鉄道、強羅~早雲山間のケーブルカーに加え、昭和3(1928)年には、乗合自動車の路線を箱根全域に有していた富士屋自動車とも連帯運輸契約を結び、箱根温泉へのアクセスを向上させていきます。

箱根名所圖繪

ケーブルカー

強羅入園切符

小田原電気鉄道が強羅総合開発の一環として造園した強羅園の大正8年の入園切符。洋式庭園、和式庭園、付属遊園で構成されていました。

その後、昭和10(1935)年からは、小田原までノンストップの週末温泉急行を運転し、新宿を毎週土曜日の午後1時55分に発車し、小田原に午後3時25分に着くようになります。これこそ現在のロマンスカーの原型でした。

相模國箱根温泉全圖 訂正再版
相模國箱根温泉全圖 訂正再版

箱根名所圖繪
箱根名所図会

戦後のレジャーブーム ~観光の活性化・多様化~

日中戦争や太平洋戦争中、軍需関係の輸送能力を強化するため、平時輸送から戦時輸送体制への転換が求められるようになります。昭和17(1942)年4月からの旅客運賃値上げなどは、観光輸送の圧迫にもつながりました。国民には、次第に不要不急の旅行を制限するよう呼びかけられていきます。

旅

写真週報

「鉄道は兵器」などの標語が出版物に繰り返し掲載されました。

旅行をする人が増えたのは、戦後の高度経済成長期、1960年代でした。これは、所得水準の向上に伴って生活上の価値観や消費のあり方が変わったためです。当時の国鉄は旅行市場の多様化と拡大にあわせ、定期列車の運行を充実させるだけではなく、夏の海水浴臨時列車、冬のスキー・スケート臨時列車など、季節列車を走らせました。

海と湖 : オールガイド

全国海水浴関係臨時列車時刻表 全部準急列車(昭和36年7月~8月)

さらに国鉄は団体旅行の誘致にも努めます。その代表例が、修学旅行でした。修学旅行は戦時中に一時禁止されていましたが、国鉄が「生徒5割引・引率教職員2割引」で団体旅行を復活したため、次第に再開されていくこととなります。昭和33(1958)年に文部省通達によって遠足・修学旅行が「学校行事」と規定されたことでニーズが高まり、昭和34(1959)年に初の修学旅行専用列車、「ひので」(品川~京都間)と「きぼう」(品川~神戸間)の運行が開始されました。

最近の日本の鉄道車両
ひので号電車(修学旅行用)

国鉄あらかると
ひので号車内

大手私鉄も観光事業に取り組み、東武鉄道やロマンスカーを投入した小田急電鉄などは、列車の高速化、旅客サービスの向上に取り組みました。

東武鉄道六十五年史

デラックス・ロマンス・カー

東京オリンピックの開幕が迫る昭和39(1964)年10月1日、東京~新大阪間を結ぶ東海道新幹線が開通しました。東海道新幹線の開通は、自動車や航空機などの新たな交通手段の登場に押されつつあった鉄道を再生させたとされ、これ以降の世界各国における高速鉄道の先駆けとなったと言われます。当初はビジネス利用が主だっていましたが、次第に沿線の観光地にも影響を与え、旅行客の東西の往来に一役買うようになっていきました。

東海道新幹線工事誌

世界の鉄道

東京駅への初入線(昭和39(1964)年7月15日)

次は「おわりに・参考文献」

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おわりに・参考文献
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