御伽草子は、もともとは『御伽草子』と称する叢書として江戸時代に刊行された物語群を指すものでした。そこには、赤本の『塩売文太物語』や『はちかつきひめ』の元になった話なども含まれていました。現在はより広く、室町時代から江戸時代初期にかけて成立した同種の短編物語の総称となっています。昔話としておなじみの一寸法師や浦島太郎など、400編にのぼる物語がこの期間に誕生していたのではないかといわれています。庶民が夢のような出世をする話、動物と人間が結婚する話など、そのテーマは多様です。御伽草子が生まれた約300年の間には動乱もあり、それ以前には低い階級であった人々の社会的地位や生活水準が上昇しました。そうした中で、それまで物語を読んでいた公家にとどまらず、より幅広い身分の人々が楽しめるように、『源氏物語』に代表される平安時代から鎌倉時代の物語文学の流れを汲みつつも、「軍記物や説話集や昔話・伝説など、あらゆる先行文学を手当たり次第に読み物に仕立てようとしたこと」が御伽草子の多様性に関係しているのではないかと、国文学者の市古貞次は述べています(市古貞次 校注「解説」『御伽草子』岩波書店, 1991.12)。
御伽草子はもともと子どものために作られたものではありませんでしたが、江戸時代に「赤本」などとして読まれた物語には、御伽草子を題材として内容を子ども向けにアレンジしたものもありました。その一方で、御伽草子が作られた室町時代から江戸時代初期のストーリーを維持して後世に伝わったと思われるものもあります。御伽草子は、どういった形で伝わり、どのようなストーリーだったのでしょうか。第二章では、木版刷り(刊本)や奈良絵本・絵巻の形で伝わり、人々に長く親しまれた物語をご紹介します。
御伽草子が江戸時代になって赤本に仕立てられるとき、絵巻や奈良絵本などにより古くから伝わった物語とは、ストーリーが大きく変わっている場合があります。
第一章で紹介した子ども向けの赤本『塩売文太物語』(寛延2(1749)年刊)の展開も、それより早くに渋川清右衛門により出版されていたと思われる『御伽草子』の中の『文正草子』や、江戸時代前期に制作された写本(手で書き写された本)である奈良絵本『ふんしょう』とは異なり、より通俗的でスリリングなものにアレンジされています。例えば、赤本の中で文太夫婦がすまきにされて川に突き落とされそうになる場面がありますが、それは御伽草子の中にはみられない展開であり、江戸時代の女性や子どもの娯楽本であることを意識して追加されたものだったのではないでしょうか。
もう一つ見逃せない両者の違いとしては、文太の娘の人数が、もともとの御伽草子では二人だったところ、赤本では一人になっている点があげられます。登場人物から消えた文太のもう一人の娘は、姉が貴族と結婚したあと、それに続くようにして帝の后になり皇子を生みます。それにより御伽草子の中の文太は、皇子の祖父となり大納言にも取り立てられ平安時代であれば大変な大出世を果たします。このように、御伽草子の『文正草子』には赤本『塩売文太物語』にない平安貴族への強い憧れが感じられます。それは御伽草子『文正草子』の成立が平安の余韻がまだ残る室町時代だったからかもしれません。
享保(1716-1736)の頃、大坂の書肆(版元・書店)渋川清右衛門が『御伽草子』あるいは『御伽文庫』という叢書名で23編の物語を絵入りの木版刷りで売り出し、人気を博しました。渋川版の御伽草子と呼ばれます。御伽草子という呼称自体もこの渋川版の出版により流布したとみられ、現在でも狭義の御伽草子としてはこの23編を指します。
『群書一覧』
享和2(1802)年に刊行された解題書。編者の尾崎雅嘉が30年にわたり調査収集した2,000を超える和書を分類し簡単な説明を加えたもの。
「御伽草子」の項には23編のタイトルが見えます。
23編の中には現在ではあまり読まれなくなった物語も少なくありません。柳亭種彦(1783-1842)の随筆『用捨箱』(天保12(1841)年刊)によれば、昔は正月の読初として女の子は『文正草子』を読んだそうですが、皆さんはこの物語をご存じでしょうか。
23編の中から、8編をご紹介します。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 前』
塩を作って売っていた文太が、とんとん拍子の大出世をするお話です。娘の良縁もあり、ついには大納言にまで登り詰めます。庶民には夢のあるなんともめでたいお話です。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 前』
観音を信心する母親が死ぬ間際に頭に被せた鉢が取れず苦労をする鉢かづき姫。継母に家を追い出されますが、風呂焚きとして雇われた館で国司の四男に見初められます。やがて鉢が外れるとたくさんの衣装や宝物が出てきました。元の美しい姿に戻った姫は四男と結婚します。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 前』
源頼朝の命を狙った罪で捕えられた母唐糸を助けるため、十二歳の娘万寿が故郷を旅立ちます。弱音を吐いては乳母に叱咤激励されて奮闘し、遂には頼朝も万寿の孝行心に感心して親子を許します。
活字でよむ:『御伽草子 前』
鰯売りの猿源氏が、名高い遊女に一目惚れします。恋の病で寝込んだものの、舅の入れ知恵で大名に扮してまんまと遊女と結ばれます。正体が知られそうになる窮地を歌の知識と機転で切り抜け、恋を成就させます。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 後』
猫の綱を解く命令が出て、猫は自由に飛びまわり、鼠は猫を恐れて逃げ隠れるようになりました。心優しい発心者(出家した人)の夢の中に、両者が変わるがわる出てきて言い分を主張する不思議なお話です。猫は自信満々に自分たちが天竺の虎の子孫だと主張します。
現代語でよむ:『おとぎ草子 (講談社学術文庫)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 後』
小さな身体でも、機転と勇気で立身出世を遂げるお馴染みの一寸法師のお話です。でも、現代の一寸法師よりしたたかな面もあり、宰相の姫を手に入れるために姫を罠にはめるところは少しイメージを覆されます。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 後』
亀を助けて竜宮城に行く浦島太郎のお話です。玉手箱の中に詰まっていたものの正体や、最後は鶴になり、亀であった乙姫と共に神様として祀られるエンディングは、今ではあまり語られていないのではないでしょうか。
現代語でよむ:『御伽草子 (古典文学全集 ; 13)』(送信資料)
活字でよむ:『御伽草子 後』
大江山の酒顛(呑)童子が都の姫君を次々にさらって食べてしまう。帝の命を受けた源雷光とその家来達が鬼退治に向かいます。正体を隠して鬼達の宴会に加わり、鬼には毒になり人には力を授ける不思議な酒をふるまい、弱った酒顛童子の首を切って退治します。
渋川版の御伽草子は、当時としては珍しい横長の判型の冊子でした。渋川版が出版される以前には、『御伽草子』という叢書名でこそありませんでしたが、渋川版と物語や版式、ページ数、挿絵、書風(刻字)まで全く同じ横長の丹緑本(墨摺りの刊本に簡単な彩色を施したもの)が寛文年間(1661-1673)頃に作られていたことが分かっています。渋川版の横長の冊子形は先行して作られた版から引き継いだ特徴であり、これは先行する版が制作されたのと同じ寛文年間頃に制作のピークを迎えていた奈良絵本にも多くみられる特徴です。そのため、これらの木版刷りの刊本は奈良絵本を模したものと考えられています。
刊本が広まる以前、御伽草子は一点ずつ手書きで書写され、奈良絵本や絵巻の形態で伝わっていました。
奈良絵本は、室町時代後期から江戸時代中期頃の150〜200年ほどの間に作られた彩色の絵入り写本(手で書き写された本)です。奈良絵本という呼びかたは明治時代以降に広まったものといわれており、由来は諸説あってはっきりしたことは分かっていません。平安・鎌倉時代から伝わる物語のほか、御伽草子の多くも奈良絵本に仕立てられました。形態には縦形も横形もあり、縦17cm前後で横24cm前後の横形本が最も多く伝わっています。これらは室町時代に多く作られた縦幅17cm前後の「小絵」と呼ばれる小型絵巻をそのまま冊子形にした形となっており、絵巻からの形態を引き継いでいることが想像できます。奈良絵本の中でも豪華なものは金箔を多用し、嫁入り本や棚飾り本として制作されたといわれます。
奈良絵本『かさしのひめ』。菊を愛する姫君が、屋敷に咲く菊の精霊と結ばれる物語です。精霊と姫は逢瀬を重ねるも、宮中の花揃えで父親がその菊を献上するように命ぜられると、菊の精霊はお腹の子をかたみに思って欲しいと告げて消えます。図は出会い、逢瀬を重ねる場面。
絵巻は、平安時代に『源氏物語絵巻』が作成されたように、古くから絵入り物語の最も一般的な形でした。絵や詞書(文章など)が変わるがわる現れ、物語が展開して行くのが一般的であり、御伽草子の多くも絵巻の形で写し伝えられました。大きさは、縦幅が30cm前後,長さは10m前後のものが多く作られ、室町時代頃には縦17cmほどの小型の絵巻もみられます。江戸時代前期に最も盛んに作られ、様々な御伽草子を現代に伝えています。
「ひろげて、まいて、あらわれる 絵巻の世界」
「ひろげて、まいて、あらわれる 絵巻の世界」では、国立国会図書館が所蔵する絵巻をオンラインでお楽しみいただけます。
※令和6年に開催した企画展示の電子版です。
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おわりに・参考文献