一見すると絵画に見える、だけど近づいてよく見ると、その絵は文字の連なりによって描かれているのがわかる・・・。「金字宝塔曼荼羅」のように経文を連ねて絵を描くことは、相当な根気と労力、さらに高い教養と技術を要しました。一体誰が何のために描いたのでしょうか?
その背景には、仏教の伝来と国家による仏教保護があります。6世紀に日本に仏教が伝わり、国家の宗教としての地位を確立していくにつれ、貴族たちは仏教の作善(仏縁を結ぶための善事を行うこと)である仏像や塔の造営、写経に傾倒していきます。特に末法思想が流行した平安時代中期から末期には、小塔や卒塔婆を数多く建てることや写仏・写経が、皇族や貴族たちの間で流行しました。そこから、経文の文字で塔を描く文字塔が生まれました。
第2章では、宗教心や信仰から発した、祈りを込めた文字絵をご紹介いたします。
経文の文字を輪郭に用いて塔の形を表した文字絵は文字塔などと呼ばれ、造塔と写経の両方を合わせたものとしてその功徳は計り知れないとされ、中国や朝鮮、そして日本で制作されていました。現存最古とされる文字塔は、唐代に作成されたもので、大英博物館に所蔵されています。経文による塔図は、のちの時代にも引き継がれ、作成されていました。
金字宝塔曼荼羅 / 宮次男著 東京 : 吉川弘文館, 1976 【HM114-50】
本書は、我が国で現存する文字塔のうち、代表的な中尊寺・談山神社・立本寺に伝わる金字宝塔曼荼羅についての詳細な研究報告です。中尊寺蔵は金光明最勝王経を、談山神社蔵は法華経、無量義経及び観普賢経を、立本寺蔵は妙法蓮華経を塔の形に写経しています。これらは、紺地の料紙に金字で九層塔形に書写し、塔の周りには経絵を細かく描くという形式が共通しています。この見事な技術と美術性からして、経文を読むためのものではなく、鑑賞するためのものであったようです。制作年代については明らかではありませんが、本書では奥州藤原氏の全盛期、平安時代末期に制作されたのではないかと考察されております。
吉備大臣物語 (大東急記念文庫善本叢刊 中古中世篇 第1巻 / 築島裕, 島津忠夫, 井上宗雄, 長谷川強, 岡崎久司編 大東急記念文庫 2007 【US1-H39】)
吉備真備が遣唐使として中国に派遣されたときのことが書かれており、その中に文字絵に関するエピソードがあります。真備の優れた才能を恐れた国王は彼を幽閉し、難題を次々とつきつけます。真備は鬼になった阿倍仲麻呂の助けを借り、これを解決していきますが、文字をばらばらに配列した『野馬台詩』の解読がどうしてもできませんでした。そこで、住吉明神と長谷寺観音を念じたところ、一匹の蜘蛛が降ってきて、文字の上を文章に従って踏んでいくのをみて、これに教えられ、解決したということです。
塔の形に複雑に並べ書かれた経文を解読することは、経文によほど精通していないと不可能でした。文字塔は信仰的な作善だけでなく、このようにクロスワード・パズルを解くような遊戯的な側面や、試験問題的な使われ方があったのかもしれません。
室町時代の文字絵の作風として、梵字を多用するものが多く見受けられるようになります。多くは下絵をもとに、文字を書き連ねていくというものであったようです。
室町の絵画展 : 詩画軸・屏風・障壁画 / 静嘉堂文庫美術館編 東京 : 静嘉堂文庫美術館, 1996 【KC111-G1】
良寅という画僧によって描かれたこの菩薩図は、菩薩と獅子の絵の輪郭を主に「アラバシャナー」という真言(密教で、真理を表す秘密の言葉)の梵字で描いています。字を連ねて描かれていますが、その画力にも優れた技量をもつことがわかります。菩薩の髪や獅子のたてがみや尾は、文字で描くことによって、その量感をうまく表現しているといえます。
江戸時代には、文字絵で人々を驚かせた人が出現しました。加藤信清という人が、寛政4(1792)年に梵字と漢字を精密に書き連ねた五百羅漢図を描いたのですが、その字数はおよそ10万。おびただしい梵字の数はその信仰心を現すものと思われます。それまでの文字絵は主に輪郭を黒一色で描いていたのに対し、こちらは平面に多色使いで絵を描いており、点描画のような効果をもたらしています。加藤信清は僧侶でも絵師でもなく、信仰の篤い下級武士でした。文字による羅漢図を5年の歳月をかけて作成、龍興寺に寄進しました。
東都歳事記 / 斎藤月岑(幸成)編 東京 : 博文館, 1893 【840-2】
(参考:江戸歳事記 4巻 付録1巻 / 齋藤月岑幸成編[他] 須原屋佐助 [ほか12名], [18--]【121-85】)
信清の死後もなお、龍興寺の羅漢図は広く知られ、龍興寺では年3回開帳されました。江戸の町名主で考証家である斎藤月岑が江戸のおりおりの出来事を記した『東都歳事記』には、1月16日の箇所に以下のように当時の様子が記されています。
小日向服部坂龍興寺に、法華経の文字を以て画る五百羅漢(略)等五十余幅の画軸を掲る。(略)微にして塵の如なるものみな経文を連らねて、これを図し着色を施すもの又経文なり
当時の人々の驚きが伝わってきます。
古画備考 / 朝岡興禎著 ; 太田謹増訂 東京 : 弘文館, 1903-1905 【77-286】
本書に加藤信清が紹介されており、経文で菩薩像を描写するものは稀にあるが、その輪郭線は言うまでも無く濃淡までも文字で描いているのは、他には見られないと称賛されています。
50歳代だった天明8(1788)年から制作を開始し、4年後の寛政4(1792)年に全51幅が完成したとあり、使用した落款や、五百羅漢図制作をする際、龍興寺にあてた手紙が掲載されています。
ここでは、上でご紹介したような文字を書き連ねた絵ではなく、字形そのものを生かして描かれた絵をご紹介いたします。
江戸時代の臨済宗の高僧で、画僧としても名高い白隠(1685-1768)による文字絵です。
白隠は臨済宗中興の祖とも呼ばれ、多くの禅に関する著作を遺しましたが、独創的な禅画や書も多く遺し、江戸の宗教美術を代表する一人とされています。
この絵には、「唐衣 おらで北野の神そとは 袖にもちたる梅にても知れ」と和歌が添えられています。「唐衣 (からころも) おらで」とあるのは、つまり織られていない衣である「南無天満大自在天神」という文字を身につけていた、神であるということを示しています。
白隠の芸術 / 棚橋一晃著 東京 : 芸立出版, 1980 【KC154-23】
本書には、「渡唐天神図」のほか、白隠が多く遺した代表的な作品「達磨」、その他の作品を、「笑いのモチーフ」「俗信のモチーフ」「公案のモチーフ」「鉄漢のモチーフ」に分け、それぞれに解説が述べられています。俗っぽいものや、ユーモアのあるものまで、まさに「白隠の芸術」の幅広く奥深い世界を堪能できる資料です。
もともと経典は梵字(サンスクリット)で書かれておりました。日本人にとって非日常的な文字である梵字がもつ神秘性、宗教性から、梵字そのものが信仰の対象となり、梵字を仏に見立てた曼荼羅=種字曼荼羅が生まれました。字が仏の絵を表している、ある種の文字絵と言えます。
梵字仏のすすめ / 石塚青我著 東京 : 日貿出版社, 1983 【HM114-94 】
本書の著者は日本画家で、梵字を美術的なものとしてとらえ、梵字を使った曼荼羅制作の手ほどきをしています。梵字仏を制作するのに必要な材料やその価格リスト、また、梵字の書き順や制作手順のカラー写真もあり、梵字のもつ非日常性からくるとっつきにくさを解消し、梵字を誰でも書けて楽しめるアートとして紹介しています。
経文で塔の絵を描いたり仏の絵を描いたりすることは高度な技術と教養が求められたため、庶民の手によるとされるものは見当たりませんが、文字の読めない庶民のために、絵で読める般若心経が、江戸時代の元禄期に生まれました。
寛政9(1797)年に刊行された橘南谿の諸国奇談集『東遊記』にその初期のものが掲載されています。岩手県の田舎には、いろはすら知らない人がいるが、般若心経などを絵で覚えるという記述があり、図入りの絵心経が紹介されています。
絵の読み方を説明すると、右上から、的のマ、側(かわ)のカ、般若面のハンニャ、妊娠でハラミ、田でタ、樹木の芯でシン、行堂のギョウ...と続きます。当時の人々の気持ちになって、挑戦してみてください。
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第3章 遊びの文字絵