父は佐賀藩士で国学者。藩校致遠館の教授を勤めたあと、フルベッキに師事、英学を修める。維新後新政府に出仕し、福岡孝弟とともに政体書を起草。明治4(1871)年外務卿に就任。マリア・ルース号事件の折衝にあたる。6年征韓論争に敗れ、下野。翌年愛国公党の設立に加わり、板垣退助、後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を政府に提出。のち宮中に出仕し、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院副議長を歴任。第1次松方内閣の内相もつとめた。