伊予西条藩士をへて和歌山藩籍に入る。昌平校で漢学を学ぶ。慶応2(1866)年4月の和歌山藩軍艦明光丸と海援隊いろは丸の衝突事件と同年11月の坂本竜馬と中岡慎太郎暗殺事件にからみ、三浦が新撰組を教唆したとの疑いから海援隊士に襲撃され負傷した。明治4(1871)年和歌山県少参事。15年元老院議官、23年貴族院議員、のち東京府知事に任じ、宮中顧問官にも勅任された。