父は米沢藩士。慶応義塾に学び、明治28(1895)年ハーバード大学を卒業。帰国後、時事新報社を経て、三井銀行に入る。大正8(1919)年以降は筆頭常務として同行を金融業界の首位へと押し上げた。昭和7(1932)年団琢磨暗殺後、三井合名常務理事となり、持ち株公開・定年制などの三井財閥の改革を実施した。12年日本銀行総裁、13年に第1次近衛内閣の蔵相兼商工相、16年に枢密院顧問官となる。