関東大震災後、帝都復興に関わった人々

大正12(1923)年9月1日午前11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュードM7.9の地震が発生しました。関東大震災です。

8月24日に加藤友三郎首相が病死して外相の内田康哉が首相代行を務めていた中、新しく首相となる山本権兵衛は組閣を急ぎ、9月2日午後7時に親任式を行って内閣を成立させました。第2次山本内閣は、その発足当初から震災処理と復興事業の遂行が最大の使命となりました。


第2次山本内閣の顔ぶれ

※この他に、鉄道大臣に山之内一次がいます。



「大震火災中の閣議」左手前が山本首相

大日本雄弁会講談社編『大正大震災大火災』大日本雄弁会講談社 大正12【526-51】(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)より

震災の当日は内田臨時首相が閣議を開き、翌日には被災者等の救済等に必要な法律を公布しました。また東京をはじめ、神奈川、埼玉、千葉には治安維持のため戒厳令が布かれました。 9月2日に発足した山本内閣は、復興事業を担う機関として帝都復興院を9月27日に内閣総理大臣直属機関として設立しました。復興院の総裁には、内大臣の後藤新平が就任し、各所から優れた技術者たちが集められました。

多くの人脈を駆使して、後藤の主導の下で復興計画が作成されますが、大規模な道路の拡張、公園の増設、運河の整備等の計画は莫大な費用が必要とされました。折しも無政府主義者が皇太子を狙撃する虎ノ門事件(大正13年12月)が起こり、その責任を取り山本内閣は総辞職、同時に後藤も辞職してしまいます。総裁の後任となったのは、水野錬太郎でした。





帝都復興院はその後、13年2月25日に廃止され内務省復興局となり、復興計画は予算や内容など当初のものから縮小してしていきました。 それでも復興局となって6年間、東京と横浜では、区画整理、幹線道路の整備、橋梁の整備、ガス管や水道管等の地下埋設、公園整備、住宅地と商工業地域の指定、地質調査などの各種事業が行われました。東京では52本の幹線道路が整備され、現在でも都内の主要道路となっています。



東京土地区画整理進捗図 昭和2年12月末現在

復興局編『復興事業進捗状況 昭和3年12月末現在』復興局 昭和3-6【600-59】より



横浜土地区画整理進捗図 昭和2年12月末現在

復興局編『復興事業進捗状況 昭和3年12月末』復興局 昭和3-6【600-59】より



国による事業のほかにも、民間有志による救済・復興組織がありました。渋沢栄一を中心として、大正12年9月9日に東京商業会議所(後の東京商工会議所)に約40名の実業家が集まり、貴族院議員や衆議院議員有志と共に大震災善後会が結成されました(会長:徳川家達、副会長:渋沢栄一)。善後会は罹災者の救済と復興を目的として、義援金募集を行いました。義援金品は膨大な額が集まり、国内だけでも当時の金額で6,000万円、皇室からの恩賜金1,050万円を合わせて7,000万円規模に達しました。現在の価値に換算すると約2,100億円になるそうです。また、渋沢はその人脈を利用して、アメリカをはじめ海外からも多額の義援金を集めました。


大震災善後会の主要メンバー


海外からの寄付者

寄付者芳名録 外国ノ部

『大震災善後会報告書』大震災善後会 1925【369.31-D17d】(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)より

関連情報

参考文献

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