10歳で得度、幼名峻麿、法名鏡如、諱光瑞。明治36(1903)年父光尊の死により浄土真宗本願寺派本願寺(西)22世門主となる。明治35年から大正2(1913)年にかけて3次の中央アジア探検隊を派遣。敦煌、トルファン、ローラン、チベットなどを探検し、収集品の整理研究のほか著述、講演、教育、印刷などの事業に力を注いだ。14年門主を辞す。太平洋戦争中には内閣顧問などを努めた。夫人は貞明皇后の姉、歌人の九条武子は実妹。