江戸で漢学を学び、元治元(1864)年横浜でJ・C・ヘボンの『和英語林集成』の編集に協力。慶応元(1865)年浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の海外新聞創刊に参加。明治元(1868)年にはバン・リードと横浜新報もしほ草を創刊した。6年東京日日新聞に入社、翌7年台湾出兵に従軍し、日本最初の従軍記者となった。10年退社。その後は事業家として、中国との貿易、文化交流にも活躍した。ヘボンから学んだ目薬「精錡水」の製造販売も有名。