漢詩人、随筆家。父は幕府奥儒者。安政3(1856)年奥儒者に任命され、徳川家定・家茂に経学を講じる。文久3(1863)年、狂詩により幕府を諷したかどで、閉門。慶応元(1865)年再び登用され、外国奉行、会計副総裁などを歴任。維新後は明治7(1874)年『柳橋新誌』を刊行、同年9月には『朝野新聞』の主筆として迎えられ、諷刺に富んだ文章で名声を博す。10年には文芸雑誌『花月新誌』を創刊した。
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