京都帝大経済学部に入学し河上肇に師事するが、昭和4(1929)年四・一六事件で検挙されるが翌年保釈。13年ミノファーゲン製薬本舗を設立し、社長となる。22年日本自由党に入党、27年衆議院議員に初当選し、以来10回当選。30年行政管理政務次官を務める。自民党内反主流派として日中国交正常化や軍縮の実現に尽力。51年ロッキード事件後に自民党を離党、衆議院議員辞職。55年無所属で参議院議員に当選。平成4年政界を引退。