哲学者。第一高等学校を経て、大正13(1924)年京都帝大文学部哲学科を卒業。空間論の研究から始まり、三木清の影響を受けマルクス主義、唯物論に転じた。昭和6(1931)年法政大学講師に就任、翌7(1932)年唯物論研究会を結成し、雑誌『唯物論研究』(のち『学芸』と改題)を創刊した。ファシズム批判を展開したが12(1937)年に執筆禁止となり翌年唯物論研究会が解散、その後治安維持法により検挙される。昭和20(1945)年8月9日、長野刑務所で獄死した。
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