明治23(1890)年、帝国大学を卒業後、会計検査院の検査官試補、26(1893)年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問として『二六新報』を創刊したが、経営難のため休刊となり、33(1900)年再刊、大衆的新聞となる。35(1905)年に衆議院議員となったが、37(1904)年に桂太郎内閣から日露戦争の際ロシアの嫌疑をうけ辞職(露探事件)。ポーツマス講和に対し『二六新報』は政府を攻撃する硬派の先頭に立った。大正政変に際しては桂内閣を支持した。